2010年04月12日

(月)日本にも死刑制度のない時代があった!

色々、やってくれたわね。

明日、4月13日は、第52代嵯峨天皇が即位した日。809年大同4年のこと。

桓武天皇の第2皇子。母は、藤原乙牟漏(おとむろ)同母兄に平城(へいぜい)天皇、異母弟に淳和天皇。

兄の平城天皇の即位に伴って、皇太弟となる。だが、平城天皇は即位後わずか3年で退位。ここに、第52代、嵯峨天皇が誕生する。即位後、兄の息子の高岳(たかおか)親王を皇太子に。

退位後、奈良に引っ越した平城上皇は元々病弱であったものの、健康を回復。そうなるともう一度天皇をやりたくなってきた。でも、それはちょっと無理なので、平城京に移り「オレ、上皇だから」と、ここに都を戻すことを宣言。それに対して嵯峨天皇は断固たる処置を取る。

翌810年弘仁元年、俗に「藤原薬子(くすこ)の変」と呼ばれるクーデターは先手を打った嵯峨天皇が数日で鎮圧、勝利。高岳親王は廃され、代わりに異母弟、大伴親王(後の淳和天皇)が皇太弟に。

尚、この「藤原薬子の変」は日本史上初の女性名の付いた「変」だけど、当時の太政天皇(だじょうてんのう、上皇と略される)制度が権力を持っていたことから、事件が起きたという評価がなされ、2003年頃の高校の一部の教科書からは「平城太政天皇の変」と記されるようになっているので、2003年以前に高校生だった方は、一応覚えといてください。

その後は表面上は平穏な時代が続き、宮廷文化も盛んになり、嵯峨天皇は空海と橘逸勢(たちばなはやなり)とともに「平安の三筆」と呼ばれるほどに書に長けていた。

818年弘仁9年「弘仁格(こうにんきゃく)」を発布。弘仁格とは、律令制における法令の一種で、着目すべきは死刑を廃止していること。この制度は保元の乱まで347年続いている。日本の死刑制度は大昔から存在していたと思ったら、死刑のない時代もあったのだ…。

また、嵯峨天皇には子供が50人ほどいて、817年弘仁8年から7年続いての干害もあり、そのことが財政を圧迫し、そこで、姓を与えて臣籍降下(源氏の成立)させることに。嵯峨天皇の子で、源氏姓を賜った者とその子孫を嵯峨源氏と言う。河原左大臣、源融は嵯峨天皇の子。

823年弘仁14年譲位。それも財政上の理由(平城・嵯峨=上皇2人)で大反対されるも押し切り、その後も「皇室の長」としての絶大な権力をふるい、後のさまざまな火種を残した人…。

嵯峨天皇が「子子子子子子子子子子子子」を「これを読んでみよ」と小野篁(おののたかむら)に命じたエピソードは有名。答えとその経緯は2009年12月14日のブログに書いてます。

ちなみに私は死刑廃止は反対です!


明日は何の日・4月13日
かわいい喫茶店の日
かわいい浄水器の日
かわいい水産デー
かわいい決闘の日
かわいい恵美子の日
かわいい新型インフルエンザ対策の日










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2010年04月11日

(日)そして、誰もいなくなっても続いて行く…

一人では独裁になり、多くなれば派閥が出来る。

明日、4月12日は、鎌倉幕府で「13人の合議制」敷かれた日。1199年建久10年のこと。

同年1月13日に源頼朝が急死。長男の頼家が2代将軍に就任。だが、なんと言っても頼家はまだ若い、それに「生まれながら」の将軍。そんな彼のエピソード。

陸奥国葛岡郡新熊野社の僧が、領地境界の争いを訴えてきたとき、頼家は争いの元になっている領地の図面に、自ら筆を取り図の真ん中に1本の太い線を引き「このように半分ずつに分けよ」と言い放った。

「手に入れた土地に狭い広いの違いがあったとしても運と思ってあきらめよ。このようなことに使者を現地に派遣して調査するなど無駄なことだ。今後、所領の境界争いが怒ったとしても、このようにする。それで不服なら訴訟など起こすな」

御家人たちが将軍に期待する重要な役割は、土地についての権利を守り、争いが起きた場合それを公平にさばいてくれることだった。

「一生懸命」の語源となったのが「一所懸命」一所を懸命に守ることが御家人たちには何より大切なことで、その争いをまじめに取り上げようとしない頼家は御家人たちからすればとんでもない将軍だった。

もっとも、この話が事実がどうかははっきりしてないけど、しかし、苦労人の父頼朝とは違い、生まれながらの将軍、頼家には御家人の権利を守り、それを拡大して行こうという意識はあまりなかったようだ。そこで、頼家から訴訟の決裁権を取り上げるため、13名の重臣「宿老」達による、合議制で政治を行うこととなる。

足立遠元
安達盛長(1200年死去)
大江広元
梶原景時(1200年追討)
中原親能(ちかよし) 
二階堂行政
八田知家
比企能員(ひきよしかず、1203年、謀殺)
北条時政(1215年、死去)
北条義時
三浦義澄(1200年、死去)
三善康信
和田義盛(1213年、和田合戦で敗死)

これは当時としては画期的なシステムだったが、このシステムによって、当然将軍のリーダーシップは失われ、力のある御家人の思惑に左右されてしまい、御家人同士の足の引っ張り合いが始まることに…。

頼朝の死後、わずか1年で梶原景時を全員で抹殺したのを皮切りに、頼家の妻の若狭局は長男、一幡(いちまん)を産んでいた。この一幡が後を継げば、若狭局の実家の比企氏にすべて持っていかれてしまう。そうなっては面白くないのが政子の実家の北条氏。

そこで、頼家が病気のドサクサに、能員をだまし討ち、一幡もろとも比企氏を滅亡に追い込む。そして、頼家の弟、実朝を3代将軍に擁立。回復した頼家は幽閉。比企氏滅亡の1年後、暗殺される。

また、3代将軍、実朝も頼家の遺児から殺されてしまう。そして、執権政治は続いていく…。

この13人の合議制が、頼朝の直系を絶やしてしまったと言えなくもない。


明日は何の日・4月12日
かわいい世界宇宙飛行の日
かわいい東京大学創立記念日
かわいい子供を紫外線から守る日
かわいいパンの日
かわいい豆腐の日
かわいいパンの日
かわいい育児の日







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2010年04月10日

(土)これぞ男子、究極の疑惑!

そんなこと、男にわかるわけないじゃない!

明日、4月11日は、第100代後小松天皇が即位した日。1382年永徳2年のこと。

後円融天皇の第一皇子。父の譲位を受けて6歳で即位。後円融上皇の院政が始まる。だが、上皇と室町幕府、3代将軍足利義満の中は険悪。その上皇が崩御すると、義満は事実上の上皇として、後に「義満の院政」と呼ばれるほどに権力をふるい、後小松天皇はその傀儡に過ぎなかった。

1392年明徳3年、義満は半世紀に渡って反目してきた南朝(大和)と北朝(京都)の関係にも陰りを見せてきた南朝に付け込む形で「南北朝合一」の講和を迫る。そして、南朝の後亀山天皇は三種の神器を京都に運び、譲国の形で後小松天皇に授ける。その講和条件の一つに、後小松天皇の後は大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交代で皇位につくことが条件とされていた。

1412年応永19年、後小松天皇は第一皇子、称光(しょうこう)天皇に譲位、院政を開始。これは南北朝合一の条件に反している。だが、衰退の一途をたどる後亀山天皇にはもう反発する力はなかった。一方の後小松上皇も院政とは名ばかりだった。それほどに義満の権力は絶大だった。

義満は長男の義持に将軍職を譲ったものの、義持とは折り合いが悪く、次男の義嗣を溺愛していた。その義嗣を天皇にしようと画策する。1408年応永15年3月、北山第へ後小松上皇が行幸の折、義満の座る場所には天皇や院が座る畳、繧繝縁(うんげんべり)が用いられ、後小松上皇と並んで座った。そんな天皇家を吸収する程に栄華を誇った義満は急死、暗殺説もささやかれている。

やっと、義満の「院政」から解放された後小松上皇だったけど、
称光天皇は病弱で皇子の誕生もなく、次男、小川宮も早世していて、ここで後継問題が起きる。後小松上皇は4代将軍、義持と協議し、伏見宮貞成親王を後継に指名。後小松上皇の猶子として親王宣下をするも、称光天皇が猛反対をしたため、ショックを受けた貞成親王は出家してしまう。

1428年正長元年、称光天皇が危篤に陥った時、6代将軍義教の仲介で、かつての貞成親王の子を猶子として、後花園天皇として即位させる。称光天皇と後花園天皇の2代にわたって、やっと院政を敷くことが出来た、後小松天皇。よかったと言うべき?

尚、一休禅師は後小松天皇の御落胤で、義満は父親ではとの説がある…。

今は調べようと思えば調べられるけど、現代の高貴・名門の血筋の人たちだって、元を正せばどうなんだろう。


明日は何の日・4月11日
かわいいメートル法交付記念日
かわいいガッツポーズの日
かわいい麺の日










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2010年04月09日

(金)君はどこからやって来て、どこに消えたの…

本当のところは…。

明日、4月10日は、聖徳太子が摂政に就任した日。593年推古天皇元年のこと。

古代のこの優秀なる御方は、最近では架空の人であったとか、蘇我入鹿の説もある…。でも、私たちが聖徳太子について習ったことは。

576年 誕生。
587年 物部氏滅亡。
592年 推古天皇即位。
593年 摂政就任。
603年 冠位十二階を定める。
604年 17条憲法制定。
607年 遣隋使派遣(1回目)法隆寺建立。
608年 遣隋使派遣(2回目)
614年 遣隋使派遣(3回目)
620年 「天皇記」「国記」編さん。
622年 没。

第33代推古天皇は、日本初の女性天皇。推古天皇は即位すると甥であり娘婿の聖徳太子を摂政に任命。ちなみに摂政とは、天皇が女性や子供であった場合、天皇を助けて政治を行う役職。太子は大臣(おおおみ)蘇我馬子の協力を得て、政治改革に取り組む。

太子の目指していた改革は「天皇家を中心とした中央集権国家」当時の日本は「天皇家を中心とする有力豪族の連合国家」であり「天皇は有力豪族の中の第一人者」に過ぎなかった。天皇と言えども、有力豪族の同意なしには政治を自由に行うことはできなかった。それを「天皇が主人で、他の豪族が家来」と言う方向に変える。天皇の命令には有力豪族と言えども逆らうことが出来ない政治。天皇(中央)に権力を集中させようとした。

そのモデルは中国。中国ではすでに皇帝がすべての権力を独占していた。日本もそんな国にしようと言うのが太子の政治改革だった。

そんな中央集権を進める上で邪魔なものが、豪族の「氏姓(うじかばね)制度」氏ごとに姓を与える、このことによって家柄が生じ、その家柄は親から子へと受け継がれる。この仕組みを改めるため「冠位十二階」を制定。

「冠位十二階」とは、個人の能力、功績に応じて与えられる冠位であり、この位を12段階に分けて個人の力量に応じて位を与え、功績によって上の位へ登っていくことが出来る。その冠位は一代限りのもの。家柄が良いと言うだけで能力のない者が高い位につくことを防ぐという画期的なもの。ただし、蘇我氏は例外。

徳(とく、紫)
仁(にん、青)
礼(らい、赤)
信(しん、黄)
義(ぎ、白)
智(ち、黒)

この6段階を、それぞれ大小の区別と冠の色と飾りによって段階を表した。仁、礼、信、義、智とは、古代中国の孔子が初めて表した儒教の徳目(人が守らなければならない多々正しい行い)から。   

そして、604年、憲法17条制定。原文は長いのでわかりやすく書けば以下のように。

@和を大切に、人といさかいを起こさないようにすること。
A仏教を信仰すること。
B天皇の命令には必ず従うこと。
C役人は皆礼儀を重んじること。
D私利私欲を捨てて、公平な裁判を行うこと。
E善を進め、悪をこらしめること。
F人にはそれぞれ役目があり、その役目を果たすこと。
G役人は朝早く出勤、遅く退庁(たいしよう)すること。
Hすべてのことに信を持ってあたること。
I人の間違いや誤りを攻めてはいけない。
J役人は功績と罪過にかなった賞罰をすること。
K地方の役人は人民から税をむさぼりとらないようにすること。
L役人は自分の仕事の内容をよく心得よ。
M役人は他人をうらやんだり、妬んだりしてはいけない。
N私欲を捨てて、公(おおやけ)の立場に立つのが臣民の務め。
O人民を使役するときは時節をわきまえること。
P物事は自分一人で決めず、良く他人と相談せよ。

古代には、役人を戒める憲法があったのだ。

607年、小野妹子らを髄に派遣。
608年、高向玄理(たかむこのくろまろ)南淵紹安(みなみぶちのしょうあん)僧の旻(みん)など、多くの留学生、留学僧を伴って、再び髄へ。玄理らは632年、帰国し、開塾。中大兄皇子と中臣鎌足はその塾の帰り道に蘇我氏暗殺の相談をしていた。

もし、聖徳太子が蘇我入鹿だとすれば、中大兄皇子はとんでもない人を殺したことになる…。


明日は何の日・4月10日
かわいい女性の日
かわいい婦人参政権の日
かわいい建具の日
かわいい良い戸の日
かわいいインテリアを考える日
かわいいヨットの日
かわいい仕入れの日
かわいい駅弁の日
かわいい四万十の日
かわいい瀬戸大橋開通記念日
かわいいステンレスボトルの日
かわいいヨード卵の日
かわいい教科書の日
かわいいインテリア検定の日
かわいい植物油の日
かわいいLPガス消費者保安デー
かわいい頭髪の日





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2010年04月08日

(木)いわゆる一つの連絡ミスが…

堀さん、連絡してよ…。

明日、4月9日は、長久手の合戦があった日、1584年天正12年のこと。

本能寺で織田信長が横死、山崎の合戦で明智光秀を倒し、ライバルの柴田勝家を賤ヶ岳の合戦で破った、羽柴秀吉。信長の次男、信雄(のぶかつ)を無視したまま、信長の後継者きどりで天下街道まっしぐら!

無視されて悔しい信雄は徳川家康に助けを求め、秀吉と立ち向かう。1584年天正12年3月、小牧の合戦。3月13日、犬山城攻略戦。3月17日、羽黒の戦い。3月28日、小牧の陣。長久手の合戦。6月から7月に起きる蟹江城攻防戦。これらは「秀吉VS信雄+家康」の戦いはひとまとめにして「小牧・長久手の合戦」と呼ばれる。

3月の小牧の合戦で、家康に不意を突かれ、戦線離脱した森長可(ながよし、蘭丸の兄)は何としても、名誉回復のチャンスを狙いたい。そこで「家康の本拠地三河に奇襲攻撃をかけたい」と秀吉に申し出る。

はじめは反対していた秀吉も親友の池田恒興(長可の舅)の後押しに、甥の三好秀次を大将にすることで作戦決行することにした。だが、秀次はこの時実戦経験ゼロ、名目上の秀吉の代理。実際の総大将は恒興。4月7日、恒興・之助親子を先頭に長可、関成政(長可の義兄)堀秀政、最後尾に秀次と言う順に三河を目指すは総勢1万6千。

だが、この奇襲作戦は近くの領主、丹羽氏次によって、徳川・織田軍に伝えられていた。知らせを聞いた家康は事実上の大将、池田軍への攻撃ではなく、最後尾の三好軍を攻撃することに。

4月9日午前、三好軍に襲いかかる。どうしていいかわからない秀次は大慌てで軍を見捨て戦線離脱。将を失った軍の崩れも早い。この三好軍の異変はすぐに前を行く堀軍に伝わった。秀政は、三好軍を追って徳川・織田の連合軍もやってくるとみて、進軍を止め迎え撃つ準備にかかる。敵を十分に引き付けておいて鉄砲で一気に攻撃する作戦は成功。連合軍の追撃はここでストップとなる。

なのに、秀政はこのことを先を行く、池田軍に報告しなかった。奇襲作戦が敵にバレていると知ったら、恒興の行動も変わっていたかもしれない。その池田軍が尾張、岩崎城の近くにやってきたとき、城から発砲してきた。敵が近くに迫っているとは思ってもみない恒興は進軍を止め、池田軍を岩崎城への攻撃に投入。

岩崎城が池田軍の手に落ちるのは早かったけど、その間に池田・森軍は敵の連合軍に包囲されていた。もはや、ここで戦うしかない。名誉挽回の長可は大奮戦!敵の真っ只中に斬り込む。だが、眉間に鉄砲を受け、長可討ち死に。恒興も敗走するときに槍で襲われ討ち死に。之助、成政も討たれてしまう…。

秀吉は出陣こそしなかったものの、多くの重臣を失う大敗となった。

こんなとき「携帯」の電源切るかな…。


明日は何の日・4月9日
かわいい反核燃の日
かわいい左官の日
かわいい大仏の日
かわいい美術展の日
かわいい子供の結核を予防する日
かわいいスイスしっくいの日
かわいい食と野菜ソムリエの日
かわいい子宮頸がんを予防する日
かわいいパソコン救急の日
かわいいパソコン検定の日
かわいいクジラの日
かわいいクレープの日




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2010年04月07日

(水)家康替え玉説の真相…

不遇の人…。

明日、4月8日は、結城秀康の忌日、1607年慶長12年のこと。

結城秀康(1574年天正2年2月8日~1607年慶長12年4月8日)徳川家康の次男。母は、永見吉英の娘、於万の方。永見貞愛(ながみさだちか)と双子と言われている。貞愛についてはいずれ書きます。

家康の次男でありながら生まれたのは浜松城ではなく、浜松城下。そして、満3歳になるまで父と対面はかなわかった。その対面もあまりの冷遇を不憫に思った、兄の松平信康のとりなしによるもの。家康が対面しなかったのは、秀康が不細工だったからとも言われている(ひどい…)

1579年天正7年、信康が武田勝頼との内通疑惑から切腹させられ、本来なら徳川の後継者となるはずなのに、1584年天正12年、小牧・長久手の合戦の和解の条件として、豊臣秀吉の元へ養子(人質)として送られる。

元服して「羽柴秀康」となのり、1587年天正15年、九州征伐が初陣。1590年展使用18年、小田原征伐、朝鮮出兵にも参加。だが、1589年天正17年、秀吉に長男、鶴松が誕生したことにより、さらに、養子に行くことになる。

1590年天正18年、下総国結城の大名、結城晴朝の姪と結婚「結城秀康」となる。秀吉の死後、1600年慶長5年、関ヶ原の前哨戦、上杉景勝征伐に参戦。景勝に呼応する形で石田三成が挙兵。家康は引き返しを決定。家康本隊は東海道から、別働隊は弟、秀忠が大軍を率いて中山道を進軍することに。だが、秀康に与えられた任務は留守居役だった。

秀康は体格もよく、武勇に優れており、武将としての器量はだれもが認めていた。凡庸な秀忠に大軍を与えることに不満を覚え、家康に自らも西へ向かう軍勢に加えてほしいと嘆願。だが、本多正信に説得され、やむなく残ることに。

関ヶ原の合戦後、家康より下総から越前北の庄67万国加増転封が下される。1604年慶長9年、松平の姓に復帰することも許されるも、その後も「結城」のままで通している。

1607年慶長12年4月8日、死去。死因は梅毒とされているけど、同年3月5日に弟の四男、松平忠吉(ただよし)も亡くなっているところから有能ゆえに、秀忠、もしくは側近に暗殺されたのではとのうわさもある(松平忠吉については3月4日のブログを参照)

本来なら、秀康が家康の後継者となるはずだったのに、なぜか家康は秀康を嫌っていた。だが、養子先の秀吉は特に子供には優しかった。秀康は秀吉を実父のように慕い「秀頼はわが弟、秀頼に危害を加えるものあれば上坂して、ともに戦って死んでやる」と言っており、病床にては「私に命があるうちは秀頼を殺させてなるものかと思っていたが、私の命が終わるなら秀頼の滅亡も遠くなかろう」と語った。

石田三成が秀吉の死後に襲撃され、家康に保護されたとき、秀康が警護して三成の居城、沢山城まで送り届けている。太閤の養子、秀頼の義兄弟としての秀康に三成は好意を持っていた。「今しばらくは、蟄居するように」と言う秀康の心使いがうれしかった三成は別れ際に名刀「五郎正宗」を秀康に送っている。秀康は大谷吉継の「敦賀正宗」も所持していた。

秀忠の将軍就任祝いの席で、上杉景勝と上座を譲りあう話は有名。ともに権大納言であるが、景勝の方が先に任官していた。秀康は先官の礼を、景勝にすれば、秀康は将軍の兄として、ともに譲り合う。これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感動する。

その心は秀忠に対しても変わらなかった。迎えに来てくれた秀忠に、地位の上下を守ろうとする秀康と、長幼の礼を守ろうとする秀忠は互いに譲りあい、結局、江戸城まで馬を並べて進むことになった。

関ヶ原の合戦で、伊達政宗は岡佐内と戦って軽い傷を負った。戦後間もないころ、政宗は馬にのって移動中に秀康とバッタリ会う。政宗は馬にのったまま。

「ほら、見て見て、こないだの戦でケガしちゃってさ。お陰で馬から下りるのも難しいのよ。なので、馬の上から無礼してごめんね、じゃ!」と言って、下馬しないであいさつを済ませ去って行った。

秀康は笑いながら「あいつは何でもないケガを、さも大ケガのように言って、オレの前で下馬しないですませやがった。今に始まったことじゃないけど、ホントに根性が曲がってるヤツだなあ」

下馬できないのに、どうして馬にのれたのよ、マー君!

武将としても、人間としても、素晴らしい人を家康はどうして見捨てたのだろう…。こうなると、がぜん、家康替え玉・家康4人説が真実味をおびてくる。

信康と秀康はわが子ではないから、平気で切り捨てられた…。


明日は何の日・4月8日
かわいい灌仏会(花祭、仏生会、浴仏会)
かわいい忠犬ハチ公の日
かわいい参考書の日
かわいい折り紙供養の日
かわいいヴーナスの日
かわいいタイヤの日
かわいいシンハービールの日
かわいい出発の日
かわいい指圧の日
かわいい果物の日
かわいい屋根の日
かわいいおみやげ感謝デー
かわいい歯の日
かわいい歯ブラシ交換デー
かわいい米の日











ラベル:結城秀康
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2010年04月06日

(火)日本初の忍びに襲われた将軍!

流れ、流れて…。

明日、4月7日は、室町幕府10代将軍、足利義植の忌日。1523年大永3年4月7日のこと。

足利義植(あしかがよしたね、1466年文正元年9月30日~1523年大永3年4月7日)父は8代将軍足利義政の弟、義視(よしみ)母の義政の正室、日野富子の妹(名前は伝わってない)

8代将軍、義政は中々子供が出来なかったのと、早く引退して趣味の世界に没頭したいために、仏門に入っていた弟、義視を還俗させ、正室、富子の妹と結婚させたにもかかわらず、1年後には正室、富子に実子、義尚(よしひさ)が生まれる。今後男子が生まれても後継にはしないと言う約束がありながら、何が何でもわが子を将軍にしたい富子のゴリ押しで、応仁の乱の引き金の一つになる。富子と義視の将軍後継争いも11年の時を経て、応仁の乱は一応の決着を見せ、将軍も義尚にと言う話し合いがつく。

兄に引っ張られ、後に義姉に押しのけられて、義視が面白いはずがない。こんなことなら、あのまま僧籍においていてくれた方が良かったのにと、さんざん繰り言を聞かされて成長した義視の息子の初名、義材(よしき)は自分は父のようにはなるまいと思った。事実、その後の義材は不屈の流転人生を送るのでした。

1489年長享3年3月26日、9代将軍、義尚が陣中で病死。1年後、義政も病死。こうなってくると次の将軍選びを急がなくてはならない。ライバル(後の足利義澄)もいたけど、なんと、そのライバルを蹴落としてくれたのが、叔母の富子。父の義視とはあれ以来仲が悪いにもかかわらず、義材を推挙してくれた。理由は義材が妹の子供であり、日野家の血をひいた者に将軍を継いでほしかったから。

ここに、室町幕府10代将軍、足利義材が誕生する。そのことがうれしくて仕方ない義視は、あれやこれやと口を出してくる。そして、また、富子と揉める。だが、その義視も1年後に没した。こうなったら、なにも恐いものはない。我こそは将軍なりと張り切る義材クン!

でも、張り切りすぎて、富子や細川政元と対立。そんなことにはお構いなく、前将軍、義尚の遺志を継ぎ、六角高頼征伐を再開、高頼の追放に成功、近江を平定。それで気が大きくなった義材は、畠山政長に「亡くなった義就(よしなり)の子、義豊を討伐して」と頼まれ、畠山氏のお家騒動に介入し、河内へ。

そんな、調子にのった義材の留守を狙って、細川政元と富子がクーデターを決行。義材のかつてのライバル堀越公方の足利政知の子、義澄を11代将軍に擁立。政長は政元に攻められ自害、義材は京都の竜安寺に幽閉。これが明応の政変。だが、これで終わるような義材ではなかった。すぐに脱出して、越中から北陸を転々とし、越前の朝倉貞景を頼る。

1499年明応8年、義材(義尹、よしただと改名)は北陸で挙兵。越前守護、貞景と政長の息子、尚順(ひさより、ひさのぶ)とともに政元を倒すべく出陣。だが、そこに立ちはだかったのが、かつて討伐した六角氏。今度こそは負けじと挑む六角氏に近江で敗北。今度は周防の守護、大内義興の元へと逃亡。

1507年永正4年、政元が暗殺され、今度は細川氏に家督争い勃発。翌年、大内氏の支援を受けて上洛した義材は、義澄を追い出し、将軍に復帰。1513年永正10年、義植(よしたね)と改名。

だが、今度は政元の養子、細川高国と対立、高国に対して身の危険を感じた義植は、誰にも告げず御所から姿を消す。義植は逃亡先の甲賀で病気に。回復後、この時は高国が折れる形で和睦が成立し、京に戻った義植は、またも高国と対立。1521年大永元年、堺へと逃亡。

今回は後柏原天皇の即位式直前だった。武家の棟梁が天皇の即位式を欠席するという珍事に、天皇も激怒。義植は廃位され、義澄の子、義晴が12代将軍となる。

またしても帰る場所を失い、今度は堺から海路阿波へ向かう。その船中に張り出された落首一つ。

誰をやこの 鳴門の沖に 御所めくは
   泊まり定めぬ 流れ公方か

2年後、ついに3度目の上洛はなく義植は阿波で没。享年、58歳。

なお、1509年永正6年10月の深夜、義植は御所で、円珍と言う荒法師に襲われている。円珍は義植の近習を次々と斬り倒し、義植にも傷を負わせる。義植はとっさの判断で屋敷中の灯りを消し、円珍は近習の死体を義植と誤認して去って行った。円珍は義澄が送った刺客で、記録上初めての、忍びとされている。


明日は何の日・4月7日
かわいい世界保健デー
かわいい農林水産省創立記念日
かわいい労務管理の日
かわいいダイヤゲージの日
かわいいスーチパイの日
























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2010年04月05日

(月)タイムマシン・ボクの過去、返してよ!

過去消し屋の正体は…。

明日、4月6日は、里見義豊の忌日、1534年天文3年のこと。

里見義豊(?~1534年天文3年4月6日)安房の大名、稲村城当主、里見義通の長男。母は、不明。

父の義通が危篤の時、長男の義豊は幼かったので、叔父の実堯(さねたか)が後見人となる。だが、一旦実権を握った実堯は居座ったままで、なんだかんだと義豊に当主の座を明け渡さない。また、重臣の正木道綱と癒着し、道綱も発言力を強めていく。当然、他の重臣たちの間にも不満が起こる。成長した義豊は怒って実堯と道綱を殺害。

それを目の当たりにした実堯の息子、義堯(よしたか)は「仇討」と称して、道綱の息子、時茂とともに挙兵。1533年天文2年、稲村城を攻撃。その後、両者は一進一退の攻防戦を展開するも、犬掛の合戦で大敗した義豊は1534年天文3年4月6日、自害、享年21歳。そして、義堯が里見家の当主に。

と言うのが、里見氏の通説だったけど、近年の研究では、そこにはとんでもない史実の捻じ曲げがあった。

正当な当主、義豊を殺し家督を奪った義堯を正当化するためと、そのために里見の仇敵である北条氏の援助を受け、さらに、間もなく北条氏を裏切り、対立陣営の小弓公方に寝返る…。

これでは、里見家当主となった義堯にとって、あまりにも都合の悪い事実が残ってしまう。そこで、義豊の生年を繰り下げて、実堯が後見を務めたにもかかわらず、義豊の無分別により殺害され、義堯はその仇討をした、と事実が改ざんされる。それがそのまま、通説となり長い間信じられてきた。

義通が没したとき、義豊は元服していたので、実堯が後見する必要はなく、義豊は家督を継ぎ稲村城へ入り、実堯と義堯は上総金谷城へ入っている。また、義通の没年にも疑問があり、享年38歳とされているけど、それは義豊の享年で、生年は1497年とする説もある。

過去を強引に消された義豊には気の毒だけど、まだ、どこかにどこかの通説を覆すような書類が眠っているのでは?

それを期待してしまう、歴史好きなのでした…。


明日は何の日・4月6日
かわいい城の日
かわいい白の日
かわいい新聞をヨム日
かわいい北極の日
かわいいコンビーフの日
かわいい四六焼きの日
かわいい自然療法の日
かわいい手巻きロールケーキの日
かわいい電話放送の日
ラベル:里見義豊 里見城
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2010年04月04日

(日)問題です・ボクは毒入りごはんを食べたでしょうか?

こんなの序の口って、アンタ…。

明日、4月5日は、伊達政宗が毒殺されかかった日。1590年天正18年のこと。

畿内は元より、四国、九州を平定し、越後(新潟)の上杉景勝とも主従関係を結んだ豊臣秀吉。残るは北条の関東と、まだ手つかずの東北。そこで、北条氏の籠る小田原城攻めには、各地の武将に参戦を呼び掛ける。これには援軍を募る目的のほかに、豊臣の傘下に収まるかどうかの判断をするする意味もあった。

平定したところの武将は元より、あの毛利でさえ水軍を出してきた。問題は東北勢。参戦しなければ「従う気ない」遅れても「どちらに付くか迷っていた」とみなされる。

東北の武将たちは小さいながらも南北朝から続く名門揃い。彼らもプライドがある。だが、百姓上がりの新参者とは言え、秀吉の勢いのすごさを熟知していた最上義光(よしあき)津軽為信、秋田実季(さねすえ)南部行直、佐竹義宣、岩城常高、相馬義胤(よしたね)はいち早く駆けつける。

その中で、今は東北の覇者となった伊達政宗、マー君はどちらかと言えば、反秀吉。父の弔い合戦と称した「人取橋の合戦」では、岩城氏、佐竹氏と戦ってるし、その後北条氏直と組んで、佐竹氏に圧力をかけ、1589年天正17年6月、秀吉と親交が深かった芦名氏を「摺上原(すりあげはら)の戦い」で滅亡させ「そのわけを聞かせて」と再三の秀吉の呼び出しも無視していた。

そんな政宗も天下が秀吉の傾いていることは重々承知。伊達家の重臣の意見も分かれていた。とは言え、東北からも多数の武将が小田原攻めに向かった今、如何に伊達家であっても、彼らすべてを敵に回してこの先、生き残れるだろうか。そこで、ついに、マー君、参戦決意!

出陣前の1590年天正18年4月5日、母の義姫から、黒川城西舘へ招かれる。久しぶりの母子対面に感激しつつ、出されたごちそうを口へ。だが、そこには毒が仕込まれていた。急いで解毒剤を口にし事なきを得るが、怒ったマー君、さすがに母は殺せず、弟の小次郎(政道)を斬殺。義姫は実家の最上家の山形へ逃げる…。

でも、この話は江戸時代の創作と言われている。伊達政道と言うより、小次郎という名前の方が定着しているのもちょっと変だけど、そこは置いといて。その小次郎は1590年天正18年4月7日に急死している。また、母の義姫が突如、実家に帰ったのは4年後。だが、小次郎の死因は依然謎に包まれたまま…。

何があったかなかったか知らないけど、結果的にマー君が小田原に到着したのが6月5日、小田原攻めも中盤戦に差し掛かっていた。当然秀吉は怒り心頭。そこで、マー君、遅れた理由をどのように秀吉に申し開きしたのだろうか。いくら、死に装束で秀吉の面前に表れようとも、その程度で納得させられるほど、秀吉は甘くない。そこで、途中母のところへ立ち寄ったら、弟が急死したので嘆き悲しむ母を慰めていたとでも言ったのではないだろうか。

だが、その話が広まると周囲は「マーが、殺したんじゃないの」と思ってしまう。親殺し、兄弟殺しもよくある時代のこと。特に、マー君なら行きがけの駄賃にやりそうなこと。さらに、あのお袋さん、弟の方が可愛いんじゃなかったけ。ひょっとして、毒でも?なんて尾ひれついて行き、それは江戸時代に完結する!?何より、小次郎の死因がはっきりしないのが怪しい。

以前にも書いたけど、出陣途中に叔父の石川昭光の居城で一泊したマー君。昭光は財政難と病気で参戦できる状況ではなかった。そこで、秀吉に献上してくれと名馬「荒墨」を託される。その荒墨を自分の献上品として、この時秀吉へ差し出している。お陰で昭光の心は秀吉には通じず、奥州仕置きで改易されてしまう…。

そんな中、秀吉の祐筆、和久宗是がマー君のとりなしをしてくれた。こっちの方は感謝して、秀吉亡き後、浪人になった彼を破格の2千石で召し抱えたりしている。

マー君、本当に遅刻の言い訳のために弟を殺ったんじゃないの!


明日は何の日・4月5日
かわいいヘアカットの日
かわいい横町の日
かわいいデビューの日
かわいいノー・レジ袋デー
かわいい長城清心丸の日






































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2010年04月03日

(土)日本、護ったどぉ!

皆さま、もっと歴史のお勉強を致しましょう!

明日、4月4日は、北条時宗の忌日。1284年弘安7年のこと。

北条時宗(1251年建長3年5月15日~1284年弘安7年4月4日)父は、鎌倉幕府5代執権、北条時頼。母は、北条重時の娘、葛西殿。

時宗には異母兄、時輔がいたけど側室の子なので、時宗が後継指名を受ける。

1261年弘長元年4月、足立義景の娘、堀内殿と結婚。

1264年文永元年7月、6代執権、北条長時が出家。北条政村が7代執権となり、8月には時宗が執権補佐役の連署(れんしょ)に就任。

1266年文永3年、幕府転覆の計画をしていたとされる、宗尊(むねたか)親王を廃位し、京都へ送還。惟康(これやす)親王を擁立する。

1268年文永5年正月、高麗使節がモンゴル国王の国書を持って大宰府にやってくる。蒙古への服属を求める内容の国書が鎌倉に届く中の3月、時宗が8代執権となる。

1271年文永8年2月、名越時章、教時兄弟、時輔、謀反の疑いで殺害。だが、真相は明らかではない。時輔には逐電のうわさもある(2月騒動)

1274年文永11年、蒙古襲来「文永の役」勃発。九州に兵を派遣。蒙古軍に追い詰められながらも、暴風雨で蒙古軍撃沈。一方「立正安国論」を幕府に上程した日蓮を佐渡に流罪。

1275年文永12年4月15日、蒙古より、外交使節到着。9月4日、鎌倉にて使節団斬首される。

1281年弘安4年6月、蒙古再来「弘安の役」今度は防御もしっかりと敢然と立ち向かうも、暴風雨により、またも蒙古撃沈。

だが、蒙古襲来には莫大な費用がかかり、蒙古の侵略から日本を守り切ったとはいえ、御家人たちに与える恩賞もなく、時宗の心労は重なって行き、1284年弘安7年ごろには病に伏すようになり、4月4日没する。享年、34歳。

モンゴル襲来、いわゆる「元寇(げんこう)」は文永の役での直接対決は1274年文永11年10月20日午前10時ごろから。元軍は戦い慣れしており、また、その戦法も違う。日本軍のまず鏑矢(かぶらや)を討ちこみ「やあやあ、我こそは…」と出身と名前を名のるという悠長なものは全く通用しない。名のりを上げている間にやられてしまう武将続出。

また、武器も元軍の弓は短弓。短くて一見力がなさそうに見えるけどこれがよく飛び、矢尻に毒が塗ってある。何より、日本軍をビビらせたのが「てつほう(鉄炮)」と言う火薬を用いた大砲のような武器。その轟音と閃光にびっくりして、大混乱を起こす。

日本軍は敗戦に敗戦を重ね、夕方には先を争って城に逃げ込む始末。本陣の箱崎はすでに敵の占領下にあった。だが、元軍はなぜか陸上にはとどまらず船に引き揚げる。そして、その夜の大風で1万3千余りの兵を失い退散。それほどの被害に及んだのは急造の船がお粗末だったから。

その後、送った使節を殺され、怒り心頭のフビライは今度こそ日本を属国にしようとまたも軍隊を派遣。日本軍も今度は防御壁を造ったりと臨戦態勢もバッチリのはずが、1281年弘安4年7月1日夜、またも大風が吹き、元軍は全軍の7~8割を失う大損害。

当時のモンゴルににらまれたら、無敵を誇ったイスラム諸国でさえ属国にされてしまう、恐ろしい騎馬軍団。あの時、日本が属国になっていたらと思うとそら恐ろしい気がする。いくら神風が吹いたとは言え、日本を護ってくれた時宗だけど、やっぱり邪魔な兄は殺している…。

現在、相撲界がモンゴルからなめられているのは、相撲界も悪いけど、この元寇の恨みもあるのでは…。

日本人は忘れっぽい国民だけど、ほとんどの外国は古~い事(歴史)を決して忘れない!


明日は何の日・4月4日
かわいい地雷に対する啓発及び地雷除去支援のための国際デー
かわいい沖縄県誕生の日
かわいい交通反戦デー
かわいいピアノ調律の日
かわいいアンパンの日
かわいいヨーヨーの日
かわいい獅子の日
かわいい脂肪0%ヨーグルトの日
かわいいどら焼きの日
かわいい写真シールの日
かわいいトランスジェンダーの日
かわいいシシリアンライスの日





ラベル:北条時宗 元寇
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2010年04月02日

(金)嵐の前に散る花…

大人は、身勝手…。

明日、4月3日は、大内義長の忌日。1557年弘治3年のこと。

大内義長(大友晴英(はるふさ)1532年天文元年?~1557年弘治3年4月3日)父は大友義鑑(よしあき)母は、大内義興の娘。兄に義鎮(よししげ、宗麟)

1544年天文12年、実子のない叔父、大内義隆の猶子となり、大内家へ。

1545年天文14年、義隆に実子が誕生したので、帰国。

1551年天文20年5月、重臣、陶隆房(すえたかふさ)の謀反により、隆房から新当主に懇願される。9月1日、義隆自害。翌日、実子の義尊(よしたか、7歳)殺害される。

1555年弘治元年、陶隆房は毛利元就との厳島の合戦で敗死。

1557年弘治3年、元就は山口へ侵攻。義長も少ない手勢で防戦するも、重臣、内藤隆世(たかよ)の長門勝山城(且山城)へ敗走。隆世は義長の助命を条件に開城、自刃。義長は長福寺へ。だが翌日、元就軍に寺を囲まれ、自刃。享年、26歳。

思えば大人の都合に振り回されただけの人生。それでいて大内家最後の当主なのに、どうにも影が薄い…。そんな義長の大友晴英少年だった頃のエピソード。

ある時、府内にポルトガル人の冒険家がやってきた。その名はメンデス・ピント。当時、痛風に苦しむ義鑑に万病に効く木の汁を飲ませて、その症状を軽くしたり、ジョークを飛ばしては武士たちを喜ばせていた。なので、義鑑に旅の金子を贈られるほど気に入られていた。

さらに、ピントの持っている鉄砲に皆の注目が集まっていた。特に晴英はその鉄砲が撃ちたくてたまらなかった。晴英はピントに撃ち方を教えてほしいと頼むのだが「簡単に撃てるものではない」と一蹴される。それでも鉄砲を撃ってみたい晴英は父に頼み込み、ピントも義鑑に懇願され仕方なく撃たせる約束をする。

翌日、ピントの屋敷に行った晴英は鉄砲の実物を見てメチャメチャ興奮してしまった。寝ていたピントを起こさぬままに鉄砲を持ちだすと見よう見まねで討ってしまった。どうやら、ありったけの火薬を詰め込み、弾を入れ、顔で抑えた後に火を着けたようだ。銃は爆発、晴英は気絶。驚いて起きたピントが駆け寄ると、晴英は額と手に大きな傷を負っていた。

晴英の供が「外国人が鉄砲で若殿を殺した」と報告したものだから、ピントは捕えられ、さすがにこの時は死を覚悟する。だが、その時ピントを助けたのは気がついた晴英だった。

「父上、母上、悲しまないで。私の過失なのだから、ピントを釈放して。これはお願いと言うか、そうしてくれないと死んじゃうかも…」その言葉で、ピントはすぐに解放された。晴英の治療に4人の坊主がやってきたが、彼らもどうしていいかわからず議論ばかりしていた。晴英は「うるさい、この悪魔たちをどこかにやって(原約のまま)」と言った。ピントが自分なら1ヶ月以内に治療できると言ったので、ピントに治療させることに。晴英は額を5針、指を7針縫い、20日後にはほぼ完治した。

これはピントの書いた「東洋遍歴記」に載っているものだけど、このピント、ほら吹きで有名なので、すべてが真実とは限らない。鉄砲の「暴発」による事故があったことは確かでも、治療したのはピントではなく別のポルトガル人。でも、晴英のやさしさがわかるエピソード。

そして、大内氏へ養子に行ったのに、実子が生まれて返され
る。その後に陶隆房から当主に迎えられた時も、自分は傀儡であることはわかっていたはず。それでも大内氏を立て直してやると、希望に胸ふくらませて再度山口にやってきたのではないだろうか。これで、大内を立て直せば自分は兄よりも格上の大名、そんな気もあったかもしれない。

だが、陶隆房が自刃してからの大内家は、元より義長を当主とは思わず、さらに、相手が三度の飯より策謀好きの元就では相手が悪すぎた。また、兄の義鎮は大内秘蔵の茶器の行方を案じるだけで、弟の命には興味を示さなかったのを見て、元就はあっさりと約束を反故にした。

その義鎮も家臣の反乱で援兵も出せず、一応、義長に船で豊後に戻って来いと言った。だが、義長は兄への意地もあってその場に留まる…。大内義長の辞世の句。

誘ふとて 何か恨みん 時きては
   嵐のほかに 花もこそ散る

「死ぬことになっても、恨むことなんて何もないよ。嵐が来なくても、花はいずれ散ってしまうもの」
 

明日は何の日・4月3日
かわいい日本橋開通記念日
かわいい清水寺・水の日
かわいいインゲン豆の日
かわいいシーサーの日
かわいいペルー日本友好の日
かわいいシミ対策の日
かわいい資産運用の日
かわいい愛林の日
かわいい葉酸の日
かわいい趣味の日
かわいいフォーサイトの日
かわいいビースリーの日
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2010年04月01日

(木)勝てなかったけど…

勝てなかったけど、阻んだだよね。

明日、4月2日は、顕如が織田信長に反抗して挙兵した日。1574年天正2年のこと。

顕如の時代、本願寺教団は父の時代以来、進めてきた門徒による一向一揆。また、管領の細川家、京の公家と縁戚関係を結び、経済的にも軍事的にも要所である石山本願寺を拠点とし、主に畿内を中心に活動していた。さらに、大名に匹敵する権力を有し、教団の最盛期を迎えていた。だが、1568年永禄11年、上洛を果たした信長は顕如に圧力をかけてきた。

1570年元亀元年、信長から摂津国石山本願寺からの立ち退きを要求された顕如は、信長の上洛に利用された事を悔しがっている足利義昭に接近、信長と敵対する事を決意、石山本願寺で籠城戦に入る。信長も周りを敵に囲まれた状態は苦しく、朝廷に働きかけこの時は1ヶ月ほどで和睦となる。

1572年元亀3年、顕如は甲斐の武田信玄、中国の毛利、近江の浅井長政、越前の朝倉義景、義昭と再び信長包囲網を構築する。

1573年天正元年、信長は比叡山を焼き討ち、義昭を京より追放し、浅井、朝倉も滅ぼす。また、縁戚である信玄の急死。ここにきて信長包囲網も崩れてしまう。ちなみに顕如の妻、如春尼は、信玄の正室、三条夫人の実妹。

1574年天正2年、越前を攻略した信長は家臣の前波吉継に統治を任すも、吉継の悪政により一向一揆が勃発。吉継は殺害される。これにより、顕如は再び信長と敵対。

1575年天正3年、長篠の合戦で信玄の後を継いだ勝頼が大敗。信長は越前越後と加賀の一部まで攻略。顕如も再度信長と和睦。

1576年天正4年、だが、その後も容赦のない信長に、顕如は3度目の敵対を決意。

1578年天正6年、第二次木津川戦では、本願寺への兵糧ルートを断たれ、今度こそどうしようもない苦境に立たされてしまう。

1580年天正8年、顕如は信長の和睦条件を呑み、石山本願寺を去り、紀伊国鷺森別院に移る。顕如はついに信長に勝てなかった…。

1582年天正10年、信長は本能寺で横死。

顕如がいなければ、信長の天下取りはもっと早くに実現していた。顕如は信長の天下取りを10年遅らせた男。

でも、勝ちたかったなぁ…。


明日は何の日・4月2日
かわいい週刊誌の日
かわいい国際子どもの本の日
かわいい五百円札発行記念日
かわいい図書記念日
かわいい歯列矯正の日
かわいいCO2削減の日





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2010年03月31日

(水)若い、若すぎる命…

みんな、若いなあ…。

明日、4月1日は、鎌倉幕府4代執権、北条経時の忌日。

北条経時(ほうじょうつねとき、1224年元仁元年~1246年寛元4年4月1日)3代執権北条泰時の嫡孫。父は、時氏。母は、松下禅尼。

1234年天福2年3月5日、11歳で元服。父の時氏は1230年寛喜2年に早世。祖父、泰時の他の子供も早世していたので、1241年仁治2年、経時は後継指名を受け評定衆の1人に任じられる。1242年仁治3年6月15日、祖父の死を受けて19歳で執権職につく。

だが、祖父の死、経時が若年で執権となったことから、北条一族内に対立が発生。さらに、就任当時、2歳だった4代将軍、藤原頼経も今は成人し、幕府の実権を握ろうとしていた。反執権勢力が盛り返しを図っていることから、経時は苦境に立たされる。

そこで、経時は強硬手段に打って出る。1244年寛元2年4月、頼経の将軍職を解任。当時6歳の頼経の息子、頼嗣(よりつぐ)を元服させ5代将軍に。1245年寛元3年5月23日、妹、檜皮姫(ひわだひめ)を嫁がせる。これによって反対勢力の攻勢を一時沈静化することに成功。だが、頼嗣は7歳、檜皮姫は16歳…。

また、今は前将軍となった頼経はその後も鎌倉に留まり、頼嗣を補佐していた。と言っても、頼嗣は子供なので実質的な将軍は頼経だった。経時は頼経の追放を図るも今回は失敗。また、頼嗣も病気がちだった。

そんな経時も妹、檜皮姫の輿入れ直後の5月末、黄疸にかかり、翌月は快方に向かうものの、9月4日、正室を15歳で亡くしている。同月27日、経時も病が再発。

1246年寛元4年3月23日、二人の息子が幼少なので、弟、時頼に執権職を譲り、出家。4月1日死去。享年、23歳。二人の息子、隆政、頼助も出家。

経時の死と同時に「宮騒動」が勃発する。

いずれにしても、余りに若くして亡くなると言うのは…。


明日は何の日・4月1日
4月・卯月
卯の花が咲くところから「卯の花月」を略したものが定説となっている。他に十二支の4番目が「卯」なので「卯月」稲の苗を植える月「種月(うづき)」「植月(うゑづき)」「田植苗月(たうなへづき)」「苗植月(なへうゑづき)」別名に「夏初月(なつはづき)」がある。

かわいいエイプリルフールの日
かわいい新学年
かわいい入社式
かわいい携帯ストラップの日
かわいいトレーニングの日
かわいい不動産表記登記の日
かわいい児童福祉法記念日
かわいいオンライントレードの日
かわいい熊本甘夏の日
かわいい売春防止法施行記念日
かわいい資格チャレンジの日
かわいい省エネルギーの日
かわいい安全衛生総点検日
かわいい家庭塗料の日
かわいい釜飯の日
かわいい小豆の日






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2010年03月30日

(火)変は変を呼ぶ

いつも明日のことを書いてますけど、旧暦には31日がないので、どうしてもネタ切れになります。今までは何とか「やりくり」してきました。そして、昨日の物部守屋は没年月はわかっているのですが、没日はわかっていません。なので、没月の7月に「丁未(ていび)の変」書くか書かないかわからないので、この際続けて書きます。

物部守屋(もののべのもりや、生年不詳~587年用明天皇2年7月)飛鳥時代の大連(おおむらじ、有力豪族)物部尾輿(おこし)の息子。母は、弓削倭古の娘、阿佐姫。

父の代からの仏教礼拝をめぐって、蘇我馬子(稲目の息子)と対立。第30代敏達天皇が崩御した葬儀の場でも、馬子と守屋は互いに相手を誹り(そしり)あい、蘇我氏と物部氏の対立はますます熾烈を極めていく。

敏達天皇の崩御を受けて、次期天皇の最有力候補は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)だが即位したのは用明天皇(大兄皇子)稲目の娘、堅潮媛(きたしひめ)が産んだ皇子。つまり、馬子の甥。

だが、このことは同じ稲目の娘、小姉君(おあねのきみ)を母に持つ、穴穂部皇子(あなほべのみこ)も「自分にも天皇の資格ある」と言いだす。そこで、穴穂部皇子は守屋を頼り、敏達天皇の妻だった炊屋姫(かしきやひめ)に直訴。その時熱くなりすぎて炊屋姫をレイプしようとして、三輪君逆(みわのきみのさかし)に止められる。

なのに、穴穂部皇子は逆キレ。馬子と守屋に「逆は無礼な奴だ、殺せ」と命じるが、頭のいい馬子は無視、そして、守屋は逆を殺す。だが、炊屋姫の寵臣を殺したことはイメージダウンとなり、朝廷内で次第に孤立して行く。こうなったら武力による権力奪回しかない。

用明天皇が即位2年で病死したので、守屋は満を持して、穴穂部皇子を擁立。馬子は穴穂部皇子の弟、泊瀬部皇子(はつせべみこ)を擁立。穴穂部皇子は炊屋姫に乱暴したことで、炊屋姫に嫌われていた。そこで、馬子は炊屋姫に取り入り、手を組むことに成功。穴穂部皇子を殺す。これには守屋はびっくり。こうして「丁未の変(ていびのへん)」へと発展していく。

587年7月、馬子は守屋追討軍の派遣を決定。守屋の屋敷に兵が押し寄せるも、守屋は木の上から雨のように矢を射り、追討軍は退却を余儀なくされる。

馬子軍には当時14歳の厨戸皇子(うまやどのみこ、後の聖徳太子)がいた。皇子は仏法の加護を得ようと四天王の像を造り、戦勝を祈願する。勝利すれば仏塔を造り、仏教を広めると誓い再び出陣。

武勇を誇った守屋も今度は、迹見赤檮(とみのいちい)に矢で討たれ、あっけない幕切れ。

ライバルを蹴落とした蘇我氏は、泊瀬部皇子を崇峻(すしゅん)天皇として即位させ、仏教を広めていく。やがて、思い通りにならなくなった崇峻天皇も暗殺。ついに、日本初の女帝、推古天皇(すいこてんのう、炊屋姫)誕生!

絶大な権力を得た蘇我氏は、息子の蝦夷、孫の入鹿へとゆるぎない地位を築いていく。

「乙巳(いっし)の変」までは…。


明日は何の日・3月31日
かわいいオーケストラの日
かわいい教育基本法・学校教育法交付の日
かわいいエッフェル塔の日
かわいいサザンイエローパインの日
かわいいそばの日





























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2010年03月29日

(月)もう、どうにも止まらない!

こうして、仏教は日本へ…。

明日、3月30日は、物部守屋(もののべのもりや)が仏殿を焼き払い、仏像を海に投げ込んだ日。585年のこと。

日本に百済より、仏教が伝わったのが552年(538年説もある)蘇我稲目(そがのいなもく)は「日本に仏教をひろめよう」とした。だが、物部氏と大友氏は大反対。そこで、欽明(きんめい)天皇は取りあえず稲目に百済から送られた「釈迦如来像」を預けることにした。稲目は仏像を自宅に安置。ちなみに稲目の家が日本で初めてのお寺となる。

だが、570年に疫病が流行。物部尾輿(もののべのおこし)は「稲目がおかしな神をあがめるからだ」と怒り、稲目の死後、その家を焼き払ってしまった。当然、息子の馬子は物部氏を恨む。

欽明天皇の崩御により、第30代、敏達(びたつ)天皇が即位。蘇我氏も物部氏も息子の代になっていた。蘇我馬子は大臣。尾輿の息子、守屋は大連(おおむらじ、天皇の補佐役)となり、馬子の妻は守屋の妹。この二人は義兄弟でもあった。

584年、百済より再び菩薩像が届けられる。日本に仏教を広めたく、病気でもあった馬子は敏達天皇に許可を願い出る。天皇も許可をする。面白くないのは守屋。また、その頃、稲目の頃と同じように疫病が流行する。

守屋は「馬子が仏教を広めようとするから、日本の神が怒った」として、天皇に禁止を求めた。585年3月30日、自ら寺に行き、仏塔を破壊、仏殿を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ込ませた。さらに、司馬達等(しばだっと)ら仏法の信者を罵倒。達等の娘の善信尼、弟子の恵善尼(えぜんに)禅蔵尼を海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎で衣服をはぎ取り、公衆の面前でムチ打った。

だが、それでも疫病は治まらず、天皇も病に倒れる。馬子はふたたび天皇に仏法の許可を願い出る。天皇は馬子にだけ許可を許す。そして、敏達天皇は崩御。

敏達天皇の葬儀の折、馬子が刀をつけてやってきたので、守屋は「矢の突き刺さったスズメのようだ」と笑った。守屋が弔辞を読むとき緊張で手が震えるのを見た馬子が「鈴をつけたら、チャラチャラといい音が聞こえそうだ」と笑った。

それだけ、対立は熾烈であったとも言えるけど、葬儀の場で相手の「不始末」を笑い合うと言うのも…。

そして、敏達天皇の後継争い、馬子と守屋の直接対決、「丁未(ていび)の変」へと発展していく。

丁未の変のことは明日書きます。その理由も明日書きます。


明日は何の日・3月30日
かわいい国立競技場落成記念日
かわいいマフィアの日
かわいいみその日
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2010年03月28日

(日)今は若者が駆け抜けて行く道!

この道を走るか…。

明日、3月29日は、小田原征伐が開始された日。1590年天正18年のこと。

1585年天正13年に四国を、1586年天正14年から1587年天正15年に九州を平定し、その間に越後(新潟)の上杉景勝と主従関係を結んだ、豊臣秀吉。

関白となった秀吉は、関白の権限で1586年天正14年11月4日付きで「関東惣無事令」翌1587年天正15年12月3日付で「奥両国惣無事令」を発布。奥両国とは、陸奥、出羽のことで、関東から陸奥、出羽に至る東北での大名同士の私的な争い、大名間で繰り広げられる領地の奪い合いを禁止した。

だが、小田原の北条氏は素知らぬ顔をしていた。1589年天正17年、以前から北条氏と真田氏の間で争われていた、旧武田の領地、沼田は秀吉が仲裁に入り、その3分の2が北条、3分の1が真田と分割。なのに、同じ年の10月、北条氏政の弟、氏邦の家臣、猪俣頼道が、真田昌幸のものとなっていた名胡桃城(なぐるみじょう)を奪い取ってしまった。

これは「関東惣無事令」に違反しているのも同じことで、北条が豊臣の臣下に入らない意思表示ととれる。そこで、秀吉は小田原征伐を決意。11月24日、宣戦布告。受けた北条も国境近くの城の城郭の整備や土嚢、兵糧の準備をする。

秀吉は3万の直属軍とともに、3月1日京都を出発。27日に沼津に到着。1590年天正18年3月29日決戦開始。北条の重臣、松永康俊が守る山中城へは、甥の秀次を総大将に、中村一氏、山内一豊、田中吉政、堀尾吉晴、一柳直末ら総勢6万8千。

山中城は障子堀と言う北条オリジナルの築城法で、箱根と言う天然の要害を見事に利用した難攻不落の山城。そこに助っ人も駆けつけ準備万端のはずが、籠城兵は4千から5千と言う少なさ。午後3時ごろから始まった合戦は2時間後は落城。

ちなみに、障子堀とは、中央に太く長い畝を置いたところから、両側の に向かって畝を出し、障子の桟のように区画されている堀。また、中央の区画に水がわき出ており、南北の堀へ排出される仕組み。水堀と用水地を兼ねた堀で、山城につくられることは非常に珍しい。

一方の氏政の弟、氏規の守る韮山城(にらやまじょう)へは、織田信雄、細川忠興、蒲生氏郷、蜂須賀家正、福島正則ら4万4千が襲いかかる。韮山城は100メートルほどの丘に築城された平城。だが、2重3重の包囲で約3ヵ月間粘り、6月24日まで持ちこたえる。それでも、北条には山中城が簡単に落とされてしまったことはかなりのショックだった。

勢いづく秀吉はさらに進軍。4月1日には箱根山、2日に箱根湯本へ、3日は小田原と、いよいよ小田原城包囲に取り掛かる。

現在の箱根路は、秀吉が登った道を、正月に若者が駆け抜けていく。


明日は何の日・3月29日
かわいいマリモの日
かわいい作業服の日
かわいい八百屋お七の日
かわいいクレープの日
かわいい肉の日



















ラベル:小田原征伐
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2010年03月27日

(土)戦国版・にらめっこの顛末…

これが一揆討ち?

明日、3月28日は、小牧長久手の戦いに出陣した羽柴秀吉が小牧山城の北東、楽田城に着陣した日。

織田信長亡き後、血をひく息子として後継者になりたい信長の次男、信雄(のぶかつ)とその後をわが手に引き継ぎたい秀吉が戦った小牧長久手の戦い。

凡将の域を出ない信雄が秀吉に対抗する相手として、徳川家康に援助を求める。これが歴史上唯一、秀吉VS家康の直接対決。


1584年天正12年3月13日、秀吉の傘下の池田恒興の犬山城攻略で火ぶたを切ったこの合戦は、信雄と言う真の信長の後継をかけて東海一の実力者家康と、ライバル柴田勝家を倒し、畿内を平定し全国規模の武将に伸し上がった秀吉の一騎打ち!勝った方が天下目前の信長の地位に達することが出来る。

そんな中、家康は紀州の根来衆、雑賀衆とうまく連携を取り、畿内での彼らのゲリラ戦に悩まされた秀吉は、合戦が勃発しても大阪城を離れることはできなかった。しかし、3月17日、羽黒での敗戦でそうも言ってられなくなり、3月21日、秀吉は3万の大軍を率いて出陣。

秀吉の出陣を知った根来衆、雑賀衆は翌22日、秀吉の南の最前線基地、岸和田城を攻撃。その勢いで26日、大阪城近くまでやってきた。城にいた女子供があわてて避難する騒ぎ。しかし、この時留守を預かっていたのが、蜂須賀家政、黒田長政、宇喜多秀家と言ったいずれ劣らぬ名将揃い。根来衆、雑賀衆の相手ではなかった。

秀吉は近江経由で美濃(岐阜)に入り、27日犬山城に到着。28日小牧山城の北東の楽田城に布陣。

一方の信雄は29日伊勢長島から小牧へ、家康と合流。秀吉軍3万VS家康+信雄軍1万6千。両者はわずかな距離でにらみ合うことに。だが、この小牧では大きなぶつかりあいはなく、その代わり水面下では子供の喧嘩のようなことが繰り広げられていた。

徳川四天王の1人、榊原康政が「秀吉は恩知らずのサルだ」と書いた檄文をばら撒いたり、秀吉は最前線の敵からよく見える位置で「お尻ペンペン」をしたりしている(やっぱり、サルだ)

しかし、のんきな御大同士のにらみ合いの陰で、ここにきて今だ傘下に入ってない地方の諸大名にとっては、秀吉、家康どっちの味方をするかは、今後の死活問題に関わってくる一大事だった。また、合戦の火種は飛び火していた。

信濃(長野) 秀吉方の木曽義昌+上杉景勝VS家康方の保科正道+小笠原貞慶(さだよし)

関東 秀吉方の佐竹義重VS家康の娘婿、北条氏直

四国 仙石久秀VS長宗我部元親

末森城 前田利家VS佐々成政

さらに「気楽な御大」の陰でイライラしているのが、最初に口火を切ったものの、羽黒で手痛い負けを食らった池田恒興と森長可(ながよし、蘭丸の兄)の舅と婿コンビ。この二人の汚名返上の後半戦、長久手の戦いは、また、その前日に。

それにしても、回りは必死なのに、本戦は何やってんだか、あきれてものが言えない。


明日は何の日・3月28日
かわいいシルクロードの日
かわいいスリーマイル島記念日
かわいい三つ葉の日
かわいい三ツ矢サイダーの日
かわいいニワトリの日





























































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2010年03月26日

(金)討ちこまれた矢の先にあったもの…

城は何も語らず。

明日、3月27日は、深沢城の攻防戦が終結した日。1571年元亀2年のこと。

この深沢城(ふかざわじょう、静岡県御殿場)は戦国時代に今川氏が築城した城。今川氏真を破って駿河を手に入れた武田信玄。深沢城は隣国相模(神奈川)との国境を接する重要な拠点。それは相模を本拠地とする北条氏政にとっても同じことだった。

何とかこの城を手に入れたい氏政。信玄に蒲原城を落とされ、さった峠で手痛い敗北を受けた1569年永禄2年以降も、たびたび深沢城に出兵を重ねてきた。城守は駒井昌道。

1570年元亀元年4月、氏政自ら出陣、城に総攻撃、2ヶ月間の攻防の末、落城。氏政の重臣、北条綱成(つなしげ)が城守につく。

だが、城を奪われた武田信玄がこのまま黙っているはずがない。同年暮れ、信玄が出陣。翌年1571年元亀2年正月早々から城を包囲、攻撃。正月3日、籠城する綱成に開城を要望する、有名な矢文が打ち込まれる。

これが武田信玄の「深沢城矢文」
「今川が上杉謙信と共謀して、私を滅ぼそうとしたから、私の駿河侵攻は正当防衛。それを何で北条がとがめだてするのか。北条が謙信に攻められピンチだった時、上杉の背後を突いて撤退させたのはだれ。この信玄だよ。その恩を忘れ私に兵を向けるなど筋が通らない。正当性は信玄にある。北条が無理を通したいのなら城へ援軍を差し向けなさい。綱成が小田原に援軍を請い、援軍が到着したら、そこで決着をつけよう!」

実際の文は矢文とは思えないほど長い。綱成は矢文を一蹴、さらに籠城を続ける。そこで信玄は作戦を変更。従軍していた金山衆に命じて城塁を掘り崩すも、以後武田の攻撃もむなしく信玄は兵を引いたとされているが、氏政が上杉謙信と景虎に宛てた手紙が発見され、そこには「綱成は武田の猛攻により16日に開城した」と書かれていたことから、援軍を待ち切れなかった綱成が1月16日、城を開け渡した。

その後は逆に武田の手に戻った深沢城を、北条がふたたび奪回しようと攻撃をかける。それは1571年元亀2年3月27日まで続くも北条は奪回できなかった。その後は勝頼の代になって武田滅亡まで、この城は武田の支配下にあった。

信玄の強気な発言は天下を狙う準備が出来ていたのだろう。この後、北条との関係を改善させ、翌1572年元亀3年、信玄は満を持して上洛の途につくことになるのだが…。


明日は何の日・3月27日
かわいいさくらの日
かわいい水ナスの日
かわいい仏壇の日
かわいいぶつだんの日
かわいいツナの日
かわいい交番の日









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2010年03月25日

(木)よくわからないボクの人生…

パパ、ママ、ボクはどうすればよかったの…。

明日、3月26日は、足利義尚の忌日。1489年延徳元年のこと。

足利義尚(あしかがよしひさ、1465年寛正6年11月23日~1489年延徳元年3月26日)室町幕府9代将軍。父は8代将軍足利義政。母は、日野富子。

思えば、意図しないのに応仁の乱を長引かせた人物…。室町幕府重鎮の山名宗全と細川勝元は舅と娘婿の間柄であり、最初は仲良くしていたけど、やがて対立するようになる。そして、部下の畠山氏、斯波(しば)氏ではそれぞれ家督争いが起きる。当時の家督相続は指名性のようなもので、一家の家長が指名してそれで何もなければ言うことはないけど、名家の男子ならばだれでも家督を継ぎたい。そこで、争いが起きる。指名から外されそれで不満なら、また、指名のないままに家長が没すれば、それこそ力づくで奪い取るしかない。

そうなれば少しでも多くの味方が欲しい。そこで、上司や縁者に支援要請をする。勝元が畠山政長と斯波義敏のから相談を受け、それぞれの支援を表明する。それを知った宗全が敵対する畠山義就(よしなり)と斯波義廉(よしかど)の支持をする。これはもう宗全と勝元の意地の張り合い。そして、こぜり合いが続いていく。

一方の将軍家でも後継の男子が生まれないので、早く引退して趣味の世界に没頭したい8代将軍義政は、僧籍に入っていた弟、義視(よしみ)に今後男子が生まれても将軍にしないと言う約束の上に還俗させる。ところが1年もしないうちに男子が生まれる。それも正室の富子に。

こうなったら、どんな約束があろうとも何が何でもわが子を将軍にしたいのが母心。また、この富子は気が強い。夫の義政にまだ引退するなと釘を刺してから、山名宗全に相談する。一方の義視も不安になり細川勝元に相談する。宗全と勝元は畠山氏と斯波氏の家督争いで対立している中、将軍家の後継者争いまで引き受けることとなった。別に、しぶしぶ引き受けたわけではなく、これで両者ともおおっぴらに戦闘開始が出来ると張り切る。

だが、その後は両者とも決定打がないままに11年の長きにわたり、だらだらと争いは続いて行き、宗全と勝元の死を持って一応の終結を迎えるのが応仁の乱のあらまし。結局、どっちが勝ったともつかない。

ちょっと前置きが長くなったけど、肝心の義尚。母のゴリ押しのお陰で見事9代将軍に就任。だが、彼の知らないところで行われていた応仁の乱。この乱によって幕府権力が衰退。乱は終わってもあちこちでこぜり合いは頻発していた。それでも義尚は1480年文明12年7月、一条兼良に命じて「樵談治要(しょうだんちよう)」「文明一統記」を書かせるなど、政治を正す意思があった。なのに、引退したはずの義政の東山山荘は、東府。義尚の室町第は、西府と呼ばれ、実際には二元政治だった。

1489年長享元年9月12日、近江国内の寺社本所領や幕臣の所領を横領した近江の守護、六角高頼を討つため自ら、近江国坂本に出陣。継いで、鈎(まがり)まで進む。だが、六角氏は地の利を生かした戦法で義尚軍を翻弄する。そんな、気の折れる毎日の中、義尚は酒におぼれていく。

それでも京の都に帰らなかったのは、母の過干渉、父の重圧から逃れたかったから。父の義政とは同じ女を取りあったこともあり、義政が延暦寺の末寺、浄土市の所有地に隠居所を建てることにしたとき、そこには天台僧の墓地があり、彼らは抗議したけど義政は素知らぬ顔。そこで彼らは将軍義尚に墓地を壊せば必ず仏罰を受けると訴えた。義尚は「まあ、待て。親父の歳を知っているだろう。もうすぐ天に召される。親父が死んだら悪いようにしないから、今しばらくはこのままにしておいてくれ」

だが、その義尚は父より先に没する。晩年には水と酒しか受け付けなかった。そして、1489年延徳元年3月26日、鈎の陣にて病死。享年、25歳。辞世の句。

ながらへば 人の心も 見るべきに 
   露の命ぞ はかなりけり 

義尚には子供がいなかったため、次期将軍は義視の息子、義材がなる。義尚の従兄弟。


明日は何の日・3月26日
かわいいカチューシャの唄の日
かわいいプルーンの日
かわいい風呂の日






















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2010年03月24日

(水)こうしてジッチャンは、悲劇のジッチャンとなる !

私たちを誰だと思ってるの!

明日、3月25日は、蘇我倉山田石川麻呂の忌日。649年大化5年のこと。

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ、生年不詳~649年大化5年3月25日)

飛鳥時代の豪族、蘇我馬子の子、蘇我倉麻呂の子。蘇我蝦夷は伯父。入鹿は従兄弟。

それにしても前半生が不明な石川麻呂。石川と言うのは地名で、畝傍山(うねびやま)東南の石川と思われる。この辺り一帯は、蘇我稲目の頃より蘇我氏の本拠地。倉は朝廷における役割を示しており、蘇我氏は元々財務関係を担当の氏族。石川麻呂もそれに類する仕事をやっていたと思われる。

そんな石川麻呂に目をつけたのが中臣(藤原)鎌足。中大兄皇子と蘇我入鹿を倒す計画を練ったけど、二人だけではその実行は難しかった。そこで、鎌足は中大兄皇子に石川麻呂の長女を妃に迎えることを提案。皇子は了承、石川麻呂も大喜び。当然その時にはクーデーのことは隠していた。だが、何てこと!結婚式の日にその長女は石川麻呂の異母弟、日向(ひむか)に奪われてしまう…。落胆する父の事情を知った次女、遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子のところへ嫁ぐことになり、これで一応一件落着。

そして、蘇我入鹿暗殺、乙巳の変(いっしのへん)では、宮廷の大極殿で石川麻呂が外交文書を読み上げた瞬間、入鹿に斬りかかる手はずになっていた。石川麻呂が緊張のあまり、声が震えるアクシデントもあったけど、クーデターは成功。

石川麻呂は蘇我氏でありながら、中大兄皇子や鎌足に組した。これは蝦夷、入鹿の本家の蘇我氏から見れば裏切り者。娘が中大兄皇子に嫁ぐときは知らなかったことにせよ、どうして一族を裏切ったのだろう。そこには中大兄皇子の妃になっている娘のこともあるけど、本家が倒されると自分が蘇我氏のトップになれる。人間は誰でもトップになりたい、その誘惑に負けたようだ。

事実、大化の改新がなされた後、石川麻呂は右大臣になっている。まさにわが世の春。そこで、かねて建築を進めていた、自分の名前のついた山田寺の建築に本腰を入れる。山田寺の本尊は「金剛丈六仏」となるはずだった。

だが、そんな有頂天の石川麻呂に悲劇が襲う。乙巳の変からわずか4年後の649年斉明5年、娘を奪った異母弟の日向の換言により、謀反の疑いがかけられる。中大兄皇子から派遣された軍に取り囲まれ、石川麻呂は建築中の山田寺の仏殿で「無実」を叫びつつ、3月25日、自害。山田寺は炎上、父の非業の死と攻めたのが夫の軍であることを知った遠智娘は後を追って自害…。

後日、石川麻呂の資財没収調査のときの書籍類には、皇太子(中大兄皇子)に捧げる銘文があり、石川麻呂の潔白を悟った中大兄皇子は悔やみ嘆いたと言う。

でも、これでは何かきれいごとすぎる。本当に、中大兄皇子は反省したのだろうか。むしろ、先で邪魔になるはずの石川麻呂を抹殺した。そうでなければ、自分の妻になるはずだった娘を奪った日向の換言を「鵜呑み」にするとは思えない。逆に鎌足あたりが日向を抱き込んだのでは。

一方の石川麻呂も謀反とまではいかないまでも、相当図にのっていたのではないだろうか。また、石川麻呂の発見された書類も、孫の持統天皇や元明天皇(どちらも遠智娘の娘)の「創作」の臭いがしないでもない。祖父の名誉回復のためにあらゆる手段を使ったと思われる。そして、炎上した山田寺も再建している。でも、これらはジッチャンのためと言うより、天皇の祖父が「謀反人」のままでは困る。

前半生のはっきりしない石川麻呂は、偉大なる二人の孫娘によって「悲劇のジッチャン」に仕立て上げられた…。そんなとこ。


明日は何の日・3月25日
かわいい電気記念日
かわいいドラマチックデー
かわいい歯茎の日
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