平家を倒し、その倒した義経も消し去り、ついに頼朝は上洛を決意、10月3日、鎌倉を出立。11月7日、千余騎の御家人を率いて、入京。かつて、平清盛が住まいにしていた六波羅の跡地に建てた新邸に入った。
そして、11月9日、後白河法皇に謁見。長時間、余人を交えずに会談。その時、頼朝は東国の支配者の象徴として、熱心に希望した征夷大将軍には任官できず、代わりに大納言への任官を求められるが、頼朝は辞退。後鳥羽天皇に拝謁を終えると六波羅へと戻った。
その六波羅の屋敷に「今に於いては、異儀有るべからず」と記した、権大納言への任官の院宣が届けられる。再び、辞退の書を返すけど受け入れられず、除目(じもく、官の辞令)は行われた。
さらに22日、武官の最高職の近衛大将に任官を打診されるものの、やはり頼朝は辞退。24日には、右近衛大将に任じられる。12月3日、両職とも辞退し、11日、勲功のあった御家人を任官させる。
権大納言に就任した9日の宵。頼朝は九条兼実(かねざね)と面会し、胸襟を開いて語り合う。
「今の世は法皇が思うがままの政治をとり、天皇とて皇太子と変わりない有様、幸いあなたはまだ若くて先は長い。私も運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつか必ず、天下の政治を正しくする日が来るでしょう」
逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ(そそぐ)意味で一旦「朝大将軍」(国の将軍)を受けた方がいいと判断し、14日、京を立ち、29日、鎌倉へ戻った。
1192年建久3年3月、後白河法皇崩御。同年7月12日、頼朝は征夷大将軍に就任。一般的には征夷大将軍就任によって、鎌倉幕府が開かれたとされる。
頼朝は、後白河法皇のことを「日本一の大天狗」と評している。その大天狗は父の鳥羽天皇からも「文にあらず、武にあらず、能もなし、芸もなし」と酷評されている。血を吐くほど「今様」にのめり込むかと思えば、平家、源氏。中でも源氏の木曽義仲、義経、頼朝を手玉に取り院政を続ける。ちなみに今様とは、現代のカラオケのようなもの。
だが、手玉に取ったつもりが、これらのことで逆に武士の台頭を許し、朝廷の力を弱めることになってしまうとは……。
やはり、能なしだった?
明日は何の日・11月9日
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