明日、11月6日は、安祥城(あんしょうじょう)の戦いがあった日。1549年天文18年のこと。
1540年天文9年、尾張(愛知西部)の織田信秀が、駿河(静岡東部)の今川氏に属していた三河(愛知東部)岡崎城主・松平広忠の三河安祥城(愛知県安城市)を奪ってから、尾張と三河の隣国同士の争いは絶え間なく繰り広げられていた。また、信秀は、もう一つの隣国美濃の斉藤道三とも、ガタガタやっていた。お互いに自分の領地を少しでも広げようと画策する、群雄割拠の時代だった。
そんな時代の1549年天文18年、弘忠が家臣に斬殺されると言う事件が起きた。これには三河の松平氏を配下に持つ、今川義元は大いに驚きあわてた。
それと言うのも、以前から織田家からたびたび国境線を侵されていた広忠は、名門今川氏に支援してもらおうと、その配下になることを約束し、2年前、嫡男竹千代を人質として今川氏に差し出すも、途中で織田方に奪われてしまい、竹千代は織田の人質となっていた。
当主のいなくなった松平家から、跡継ぎにと竹千代が求められた場合、竹千代は織田の傘下になってしまう可能性が大きい。そうなれば、三河一国がそっくりそのまま織田の領地になってしまう。松平を今川の傘下につなぎ止めておくためには、なんとかして、織田家に揺さぶりをかけなくてはいけない。
義元は家臣の朝比奈泰能(あさひなやすよし)らを岡崎城へ送り込んで、守りを固める一方、軍師の太原雪斎(たいげんせっさい)を総大将に、信秀の息子、信広が城主の安祥城攻めを命じる。
3月19日、僧侶である雪斎は、墨染めの法衣の上にヨロイを付け、最前線に立って指揮を取った。だが、この日は織田方の激しい抵抗に合い、本多忠高(本多忠時の父)を失い、一旦兵を引いた。その後、9月18日にも双方激突するも、安祥城は落ちなかった。
明けて、1549年天文18年11月6日、軍の体勢を立て直した雪斎は、大軍を率いて安祥城を包囲、総攻撃をかける。この日はまたたく間に三の丸が落ち、本丸の孤立に成功。
雪斎の狙いは、信広を生け捕りにすること。織田の人質となっている竹千代をこちら側へ。信広は織田家当主、信秀の息子。1対1の人質交換を成功させるため!
信広は降伏し、今川の人質となった。4日後の11月10日、尾張笠寺(名古屋市)において、両者の人質交換は行われた。このとき8歳の竹千代は、亡き父の後をついで、岡崎城主の身分となるも、実際の岡崎城には今川の家臣が城代として入り、竹千代はそのまま駿府に送られることとなった。
織田の人質から今川の人質へ変わっただけ……。しかもこれで完全に三河は今川の支配下になってしまった。松平の家臣は今川に従うしかない。
わずか8歳で、あっちからこっちへの人質移動、父の死に目にも会えなかった少年は、このときから19歳の運命の日まで人質生活を続けることになる。
その運命の日、1560年永禄3年5月19日、桶狭間の戦い。この戦いで当主、義元を失った今川家のドサクサで、長年の人質生活から解放された少年。彼こそが、ご存知、後の徳川家康。
奇しくも、この家康の長年の人質暮らしの呪縛から救った、その人こそ、あの日、人質交換された相手、信広の弟、信長!
こうして、信長と家康の今川を挟んだ運命の糸が、初めて絡み合うことに……。
だけど、忘れてはいけない。この桶狭間の合戦のとき、雪斎が生きていたなら、義元が信長に討たれるようなことはなかったと言われている。雪斎は、1555年弘治元年、60歳でこの世を去っている。今川氏の衰退は、雪斎の死によるところが大きい……。
明日は何の日・11月6日
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