平安時代の日本はまだ一つの国とは言えなかった。東北には蝦夷(えぞ、えびす)と言う呼ばれる別の国があった。畿内に誕生した大和政権は、抵抗勢力を抑え中央集権を目指し、蝦夷に軍を差し向けていた。平安京に遷都して、第50代桓武天皇の時代になっても、まだ配下に組み入れることは出来なかった。
坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ、758年天平宝字2年〜811年弘仁2年5月23日)
田村麻呂が若年の頃、陸奥では蝦夷との争いが激化していた。789年延暦8年、紀古佐美(きのこさみ)率いる官軍が、蝦夷軍に大敗。田村麻呂は次の征討軍に加わり、大保弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐して、793年延暦12年軍を進発。このときは4人の副使(副将軍)の1人だったけど、中心的な役割をしていた。
征夷とは、蝦夷を征伐すると言う意味。そのための将軍。それも大将軍と名づけられている。なので、征夷大将軍と言う役職は武勇に優れた武将が任命される。だが、その武勇を持ってしても、何度軍隊を派遣しても、蝦夷の族長、阿弖流為(あてるい)の抵抗で、ことごとく失敗していた。
801年延暦20年、田村麻呂は3度目の蝦夷征伐の征夷大将軍となり、蝦夷の平定に成功。田村麻呂の各族長に対する「懐柔策」によって、ほとんど戦わずして蝦夷は降伏した。802年延暦21年4月15日、阿弖流為と盟友、磐具公母礼(いわぐのきみもれ)以下500人余も降伏。田村麻呂は命の保障をして、桓武天皇に拝謁すべく平安京への上洛を促す。
だが、都の公家たちは「蝦夷は獣の心を持っている」として、
803年延暦22年8月13日、阿弖流為と磐具公母礼は処刑されてしまう。
戦わずして、平和裏に蝦夷を平定した田村麻呂は大将軍と呼ぶにふさわしいけど、都でのんびりしていた公家たちのなんと、非情なこと……。
明日は何の日・11月5日
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