同じ年の6月5日、摺上原(すりあげはら)の合戦で勝利を治めた、伊達政宗。一方の芦名氏は多くの犠牲者を出していた。芦名氏の総大将の芦名盛重(義弘)は佐竹義重の息子。芦名氏に養子としてやってきたわけだけど、敗戦の責めを負わされ、5日後、盛重はわずかの手勢を連れ、実家の佐竹氏を頼ることとなる。
芦名氏に勝ったとは言え、名門の芦名氏を滅ぼしたわけではない政宗は、一旦は猪苗代城(福島県猪苗代)に戻り、自軍を休ませるとともに、敵の情勢を探っていた。そこに、振って沸いたように飛び込んできたのが、芦名氏の自滅のニュース。
合戦の勝利から、労せずして名門芦名氏を滅亡させた……。
政宗は翌日、芦名氏の居城、黒川城に威風堂々の入城をする。思えば、18歳で家督を継ぎ、その翌年の父の死をのり越えてから、わずか4年後のことだった。
居城を米沢城から黒川城へ移した政宗の元には、鎌倉時代からの名門芦名氏の滅亡を目の当たりにした、周辺の小勢力の武将たちが次々と伊達の傘下に入ってきた。石川昭光もその一人だった。
石川昭光(1550年天文19年〜1622年永禄8年7月10日)
伊達春宗の息子。政宗の叔父に当る。1568年永禄11年、石川春光の養子となる。1589年天正17年、伊達傘下に服属を表明する。
これによって政宗は、仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫(しのぶ))と、陸奥、出羽合わせて66郡のうち、約半分を手中にしたことになる。まさに奥州の覇王と呼ばれる大大名にのし上がった。このとき、政宗23歳。父の死からたったの5年で、奥州の半分を掌握した若者が、後何十年もの人生のうちで天下を取るのも夢ではないと思ってしまうのも無理はない。
その若さは豊臣秀吉の本当の力を知らなかった。さらに、関東の北条氏が健在の間は、秀吉も奥州まで手を出さないと言う見方をしていた。芦名氏とよしみを通じていた秀吉は、政宗が芦名氏を潰した理由が知りたくて、再三再四の上洛要請をかけた。だが、政宗はなんだかんだと理由をつけては断り続けていた。ところがここに来て、その北条氏が危うくなってきた。
四国・九州を平定し、越後の上杉景勝と主従関係を結んだ秀吉は、1587年天正15年12月「関東・奥州惣無事令」を発布している。惣無事令とは、大名同士の私的な争いをしてはいけないと言う命令で、自らが天下を掌握せんがため、勝手に合戦をしてはいけないと言う、天下目前の秀吉が、刀狩り、検地に続いて発令したものだった。
なのに、政宗が仙道七郡を掌握した1589年天正17年と同年の10月23日、北条氏は惣無事令を破って、真田氏の名胡桃(なぐるみ)城を奪取すると言う事件を起す。このことは結果的に秀吉に、北条氏を潰す口実を与えてしまうこととなる。
始まった小田原城総攻撃。政宗は秀吉の再三の上洛要請を断り続けている。秀吉の傘下になるのかならないのか、決断を迫られることに……。
さあ、どうする?若い、政宗クン!
10月7日(水)オー・マイ・戦国!
7月4日(土)インドア派・あのスター一族の落日……
明日は何の日・11月4日
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