2009年11月02日

(月)敵からも愛された、猛将!

明日、11月3日は、筑後・柳川城主、立花宗茂が加藤清正の説得に応じ、開城した日。

立花宗茂(1567年永禄10年11月18日〜1642年寛永19年11月25日)
豊後(大分)の戦国大名、大友宗麟の家臣で島津氏に攻められ、岩屋城で全員打ち死にと言う壮絶な激戦を繰り広げた、高橋紹運の息子。同じく宗麟の重臣だった、立花道雪の娘婿となり、立花姓を名のる。

島津に攻められたこの合戦のとき、父を失いながらも自らの立花城を死守し、その後、大友氏の支援にのり出した豊臣秀吉の力を借りて、見事、島津から豊後一国を守りぬいた。

そんな宗茂の力量を見抜いた秀吉は、戦後、主君である大友氏を改易して、逆に宗茂を独立した大名に取り立て、筑後(福岡)柳川13万石を与えたと言うから、その猛将ぶりはハンパじゃない。

秀吉の傘下になってからの宗茂は、朝鮮出兵でも活躍。1593年文禄2年の、碧蹄館(ビョクジェグァン)の戦いではわずか3千の兵で、30万の明軍をキリキリ舞いさせた。

秀吉の死後、関が原の合戦では、秀吉への恩から西軍につき、近江(滋賀)の大津城を攻めて開城へ追い込ものの、本家の関が原の合戦が予想以上に早く決着が付いてしまい、宗茂は関が原に参戦することができず、そのまま、柳川城へ戻ることになった。

その柳川城に攻めてきたのが、関が原の2日前に勃発した、石垣原の合戦で勝利し、豊後・豊前を制圧した、黒田如水(孝高)如水は佐賀城主、鍋島直茂に柳川攻めの先陣を言い渡していた。このとき、直茂は、自身は徳川の東軍支持を表明していたけど、息子勝茂は西軍となり、伏見城攻めに加担していた。その疑念を晴らすためにも先陣として、柳川城を攻めに加わっていた。さらに、西軍として関が原に参戦し、10月1日に、処刑された小西行長の主亡き諸城を次々と攻略した加藤清正が加わる。

如水、直茂、清正のいずれも智将の誉れ高い彼らに囲まれてしまった宗茂。さすがの宗茂も窮地に追い込まれてしまう。

その時、助け船を出したのが、加藤清正。宗茂と清正は朝鮮出兵で共に戦った戦友。宗茂の力量は十分に知っている。父のように全員打ち死にの悲劇となり、ここで命を捨てるには惜しい武将……。清正は宗茂を説得した。

1600年慶長5年11月3日、宗茂は清正の説得に応じて、柳川城を開城した。如水の交渉条件は、この先、九州での合戦で先陣を務めると言うものだった。このまま、九州平定を続けなければ、関が原の合戦で敵中突破で戦場を去った島津義弘の兄、義久が薩摩(鹿児島)を牛耳っている。

ところがその後、宗茂、直茂を先陣として、肥後(熊本)から薩摩の国境まで陣を進めた11月12日、家康が薩摩への進軍を中止する決定を下した。

義久のさまざまな外交交渉が功を奏したことと、これ以上合戦が長引くことを良しとしなかった家康の思惑もあり、この先、島津を攻めることは無かった。

柳川城の攻防戦が最後となった、関が原の合戦の幕はすべて下ろされ、降伏となった宗茂への処分が下された。清正をはじめ、宗茂の武勇を知る者たちは、なるべく軽い処分にと尽力するものの、西軍に加担した罪は大きく、翌年1601年慶長6年、改易処分となった。

諸将に惜しまれつつ、京都で数人の家臣と浪人暮らし、生活は当然苦しく、ある時、米が残り少ないので、ついに大根粥となった。大根粥を目にした宗茂は「粥が食べたいなら、自分で水を入れる」と言った。宗茂は、粥が米の少なさを補うための策だとは知らなかった。また、家臣たちは食べ物調達に町に出かける前に、糒(ほしいい)のためにご飯を干していた。ところが途中で雨が降ってきた。きっと、殿は糒を取り込んではくれないだろうと話しながら帰宅すると、やはり糒はそのままだった。そのことが殿らしく、家臣たちは思わず万歳をした。その頃には雨は止んでいた。すると宗茂は「お前たちは雨が止んだのがそんなにうれしいのか」と言った。

そんな殿様気分の抜けない宗茂は、この頃はせっせと元家臣のために、感状書きをしていた。感状とは、再就職のための勤務評定のようなものだけど、宗茂の感状は推薦状のようなものだった。何しろ、名将の誉れ高い宗茂がほめちぎっているのだから、仕官先も引く手数多だったとか。ともあれ、宗茂が感状書きに精を出すことができたのも、清正達の援助があったから。

1603年慶長8年、2代将軍、秀忠から西国事情、内政相談などで声がかかり、最初、陸奥(むつ、青森)棚倉1万石が与えられ、4年後3万石に加増された。さらに、1620年元和6年、宗茂が改易された後、柳川城主となっていた、田中氏が跡継ぎの無いのないまま断絶。すると以前の領地をそのまま与えられ、城主として復活することとなったと言うから、相当、頼りにされていた人物なのだ。その時には再就職を斡旋し、あちこちに散らばっていた家臣たちが、再び集まってきた。

宗茂の重用は、3代将軍家光の世になっても続き、関が原の合戦によって、徳川に付いたいわゆる外様大名達が、何かと不可思議な死を遂げる中、宗茂だけは76歳の天寿を全うする。亡くなる5年前には、島原の乱で戦場の指揮を取り、若き日の雄姿をほうふつさせていた宗茂は、戦国屈指の名将と言える。


7月26日(日)あなたの名は、平成の空に輝いてます!
9月15日(火)敵中突破!「島津の背進」
10月24日(土)美少年だ!行かなくっちゃ!

明日は何の日・11月3日
かわいい文化の日
かわいい文具の日
かわいいマンガの日
かわいいレコードの日
かわいいハンカチーフの日
かわいいサンドイッチの日
かわいいアロマの日
かわいいいいレザーの日
かわいい文化放送の日
かわいいゴジラの日
かわいいみかんの日
かわいいいいお産の日
かわいい調味料の日
かわいいビースリーの日

こちらへもどうぞ
花 ゆ れ
http://hanayure.seesaa.net/
ひびわれ鏡
http://hibiwarekagami.seesaa.net/
天の川心中(戯曲)
http://amanogawa-kosmos.seesaa.net/













































posted by 松本萌花 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.seesaa.jp/tb/131496899

この記事へのトラックバック