明日、11月1日は、山背大兄王を蘇我入鹿が攻撃した日。643年皇極天皇2年のこと。
当時の天皇家の皇位継承は世襲制ではなく、天皇にふさわしいとされる人物が選ばれるようになっていた。だが、それが本当にふさわしい人物が選ばれるとすれば、言うことはないけど「自分達」にとってふさわしい、思い通りになりそうな人物を推しようとするのが、時の権力者達。天皇など飾りでよく、その下で自分達の栄耀栄華を願う。そのためには邪魔な候補者を消すこともいとわない。
山背大兄王(やましろのおおえのおう、?〜643年皇極天皇2年11月11日)
厩戸の皇子(うまやどのみこ、聖徳太子)の息子、母は、蘇我馬子の娘、刀自古郎女(とじのいらつめ)次期天皇の後継候補だったけど、蘇我入鹿は人望のある山背大兄王より、自分の意のままになる古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を皇位に推していた。つまり、山背大兄王は邪魔だった。
斑鳩宮にいた山背大兄王は、入鹿軍の急な襲撃に追われ、一族郎党を率いて生駒の山に逃れる。だが、なぜか再び、斑鳩法隆寺へ戻ってくる。そして、山背大兄王は言う。
「戦えば勝つのはわかっている。だが、戦いたくない」そして、11月11日、一族郎党とともに自害……。
でも、平和な時代ならいざ知らず、血で血を洗う、皇位争奪戦が繰り返されていた時代。勝てるとわかっているのに、戦いたくないからと言って、死を選ぶだろうか。本当に皇位継承の意思がないなら、はっきりと辞退すればいい。さらに、現在とは死生観が違うとは言え、一族郎党までもが、そんなにも簡単に死を選ぶだろうか。
そこに蘇我一族の意図を感じる……。
と言うのが、「日本書紀」のこれまた意図だけど……。
この日本書紀を編さんしたのは、藤原氏。そう、山背大兄王の自害から、2年後の「乙巳の変」で、蘇我入鹿が暗殺された。その時入鹿は最後の力を振り絞って「私が何をした。私は無実だ」と言い、中大兄皇子(後の天武天皇)は「聖者の王家を滅ぼし、天皇家を傾けようとした者を罰した」と言い放った。
聖者の王家とは、聖徳太子一族のことで、つまり、山背大兄王の仇をとったと言うわけ。だけど、現在ではこの聖徳太子が実在の人物であったかも疑問視されているし、蘇我入鹿が聖徳太子ではとする説もある……。
その後は中大兄皇子とともに、入鹿暗殺に加わった中臣鎌足(藤原鎌足)が権勢を振るい、藤原一族は栄華を極めていく。その鎌足の息子、不比等の全盛時代に編さんされたのが「日本書紀」執筆にはもちろん、不比等以下、藤原一門が深く関わっている。
日本書紀では、蘇我一族、特に入鹿は悪人にされている。だが、入鹿はそんなに悪人だったろうか。また、蘇我一族もそんなに悪かったのだろうか。中にはひどい連中もいただろうけど、物部氏を倒したのは、やらなければやられていた。そう言う時代だった。そして、権力を得た。そんな権力の輪の中に入れない、中大兄皇子や中臣鎌足が入鹿を暗殺するための大義名分。それが山背大兄王の「事件」
では、誰が山背大兄王や、一族を殺したのか!
それは、永遠の謎……。
いや、何か「証拠」が見つかって欲しい。でも、もう見つからない?
歴史は、深いなぁ……。
明日は何の日・11月1日
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