2009年10月28日

(水)日本初の考古学者は、水戸家のあの人だった!

歩くだけでは、脳がない!

明日、10月29日は、水戸藩が「大日本史」240巻を幕府に献上した日。

大日本史は、水戸光圀の命により編纂が開始された。1657年明暦3年2月27日より着手。完成は1906年明治9年までかかったと言う、まさに膨大な大日本史。

水戸光圀(1628年寛永5年6月10日〜1701年元禄13年12月6日)
水戸光圀が新らしもの好きあったことは良く知られている。日本でラーメン、チーズ、餃子、牛乳酒、黒豆納豆を最初に食べたのが彼。くつ下を最初に履いたのも光圀で、肉食もし、ワインも愛飲していた。だが、光圀の少年時代はかなり不良であったようで、辻斬りなどもやっている。

そんな光圀は1645年正保2年、18歳のとき、司馬遷の「史記」と出会う。その「史記」の中の「伯夷伝」の「王位を兄弟で譲り合う話」に感動した光圀は、兄を差し置いて家を継いだ経緯を持っていた。そこで、兄、頼重の息子に水戸家を継がせることにした。また「歴史を知ることで、人は変われる」ことを知り、それまでの不良暮らしから足を洗い、大日本史の作成に打ち込む。

1657年明暦3年、江戸、駒込の屋敷内に「彰孝館」を建て、本格的に日本史の編纂(へんさん)にのり出す。

大日本史の編纂に当って、日本中の史跡を巡って資料を集めたのが、佐々木介三郎宗淳(すけさぶろうむねきよ)その資料を整理して執筆したのが、安積覚兵衛澹泊(あづみかくべいたんぱく)

そんな光圀は、日本初の「学術的な目的での本格的古墳の調査」をしている。栃木県の「侍塚」で、数百メートルの間を置いて、南に「上侍塚古墳」北に「下侍塚古墳」と言う古墳の調査。

ことの発端は、1674年延宝4年、梅平村の名主・大金重貞(おおかねしげさだ)が、自分が名主を務めるこの土地のことを色々書きとめた「那須記」を村にやってきた光圀に献上したことから。その中に「傘石様」と言う昔の石仏が無造作に捨てられていることを読み「古い遺跡そのままにしておくのはしのびない」と、佐々木介三郎に修復、再建を命じる。

近くの古墳「車塚」を発掘調査が始められ、10日間ほどで、鏡、甲冑、太刀、高杯(たかつき)などの副葬品が多数発見された。「那須直韋提(あたいいで)」と言う、那須を治めていた国造(くにのみやっこ律令制度が導入される前の大和政権の国の長)の墓石的なものであることがわかった。その石碑は、直韋提の生前の業績を評価してのものと思われている。

だけど、光圀のすごいのはこの後、出土品を一つとして、私物化することなく、絵師に描かせてから、すべてを木箱に入れ埋め戻し、古墳の外形も元に戻し松を植え、1692年元禄5年、発掘調査を終えた。

まさに、日本初の考古学者、水戸光圀!

1694年元禄7年11月23日、幕閣、諸大名を招いての能舞興行の際、人払いした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺している。理由は不明だが、藤井が柳沢吉保と光圀の失脚を謀ったからではないかとされている。

みんな、色々やってるんだ……。


明日は何の日・10月29日
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posted by 松本萌花 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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