明日、10月28日は、鎌倉幕府の御家人、66人が鶴岡八幡宮に集結して、梶原景時の弾劾状を作成した日。1199年正治元年のこと。
梶原景時には、悪人のイメージが付いて回る……。
石橋山の合戦で大庭影親とともに、源頼朝と戦った景時は、敵である頼朝を助け、その後、平家を見限ってさっさと頼朝軍に加わった変わり身の早さ。その後、頼朝の弟である、範頼、義経と平家追討には、お目付けとして同行。最終的には頼朝と義経の確執を生んだ張本人!
たけど、石橋山の合戦後の寝返りにしても、当時は平家全盛の時代。源氏は壊滅状態。その時生き残った武士たちの、ほとんどが平家の傘下にいた。妻、政子の実家の北条氏も流人頼朝を見張る役目の平家。木曽義仲と運命をともにした中原一族も、幼子を殺すのはしのびない気持ちにうたれて、義仲を預かった平家。このとき、平家から源氏に寝返ったのは景時一人ではない。
義経との平家追討時の論争も、ともすれば独走しがちな義経を、兄・頼朝の代役、軍目付けの立場からの意見を言ったまでのこと。平家に勝ったからいいようなものの、ともすれば、義経は自分だけ目立とうとしていた。また、戦いの後は入水した安徳帝の母である、徳子に手を出したりと、景時が眉をひそめるようなことを平気でやっている。それらの報告をするのが、景時の役目。そのために頼朝から派遣されたのだ。
石橋山の合戦の後、頼朝の家臣になってからの景時は、頼朝第一で忠誠を尽くしてきた。頼朝も事務能力に優れ、命令には絶対服従してくれる景時を高く評価していた。
そんな景時を悪く書いているのは「北条九代記」もっとも、北条氏が景時のことを良く書くはずはない。
その北条九代記に寄れば、1192年建久3年、頼朝が征夷大将軍なったとき、和田義盛に代って景時が侍所の別当(警察庁長官のような役目)に就任したときのこと。以前から、侍所の別当の役職を狙っていた景時は、当時の別当だった義盛に「1日だけその職務を貸してくれ」と頼み込んで、人のいい義盛が承知したのを幸いに、そのまま居座ったと言う。だけど、こんな常識がまかり通るほど、鎌倉幕府が軟弱であったとは考えられない。別当交代はあくまでも頼朝の人事。
頼朝の妻の実家である北条氏にしても、自分達より頼朝に気に入られている景時が気に入らない。それは北条氏に限らず他の御家人達も同じ。誰だって鎌倉幕府の長・頼朝に気に入られたい。
だが、1199年正治元年正月、鎌倉幕府の確立を見ないままに、頼朝は亡くなってしまう。景時の不幸はその時から始まった……。
頼朝と言う大きな柱を失った鎌倉幕府は、頼朝の妻、政子の実家の北条氏、二代将軍頼家の嫁の実家の比企氏、その他多数の御家人達が主導権を争うこととなる。将軍頼家はどうしても嫁の実家を重視。このままでは統率が取れないとして、頼朝時代からの重臣13人を宿老と定めて、この13人で政務を行うことにした。
13人の中には、景時に別当の職を取られた義盛。政子の父、時政。頼家の嫁の父、比企能員(ひきよしかず)景時も入っていた。
しかし、頼朝と言う大きな後ろ盾を失った景時が最初のターゲットにされてしまった。頼朝の死から1年経たない1199年正治元年10月28日、弾劾状が作成された。
弾劾状を頼家に提出するのは、13人の宿老の中に入っている、大江広元の役目だった。政所の長官を務めていた良識ある広元は「それにしても、亡き主君の一周忌も迎えてないのに……」と手元に留めおいた。だが、弾劾状を作った義盛にせっつかれ、シブシブ頼家に提出。
こうして、頼朝一番の寵臣、梶原景時は、鎌倉を追われることになった。
だが、景時はあくまでも最初の犠牲者にすぎなかった。
この先、幕府の実権をめぐって、御家人たちは次々と争うことになる。そして……。
8月22日(土)究極のかくれんぼ・あっ、見っかっちゃった……
明日は何の日・10月28日
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