明日、7月11日は、保元の乱のあった日。
1156年保元元年7月11日の明け方に始まった、保元の乱は4〜5時間で決着が付いた。なんじゃ、そら……。
冷え切った親子関係に、これまた冷え切った親子・親戚達がそれぞれにくっ付いた、天皇家の家庭内争議……。
第73代堀河天皇の第一皇子・鳥羽天皇(宗仁親王)は、生れてすぐに母を亡くしたため、祖父の第72代白河法皇の元で育った。その後、父の堀河天皇が亡くなったので、5歳で即位。当然、政権は白河法皇の思いのまま。15歳の時、権大納言藤原公実(きんざね)の娘で白河法皇の養女となっていた、璋子(しょうし)が女御として入内。でも、この璋子、養女とは名ばかりで、白河法皇の愛人。それも元ではなく現役。翌年、中宮となってもその関係は続いていた。
そして、璋子中宮は顕仁(あきひと)親王を生む。鳥羽天皇はこの子を「叔父子(おじご)」と呼んでいだ。どう考えても、ジッチャンの子に違いない。
それで面白いはずがない鳥羽天皇は、顕仁親王が生れた翌年、1120年保安元年、白河法皇が熊野に参詣している隙に、関白・藤原忠実(ただざね)の娘・泰子(たいし)を入内させ、白河法皇の機嫌を損ねている。忠実は関白の座を追われ、宇治に引きこもることになった。
顕仁親王が5歳の時、白河法皇はまだ21歳の鳥羽天皇を無理やり退位させ、顕仁親王を即位させた。白河法皇の圧倒的権力に立ち向かう術もなく、かくして、第75代、嵩徳天皇が誕生した。
1127年大治2年、璋子は雅仁親王を生む。今度は鳥羽上皇の子供のよう。その2年後の1129年大治4年、白河法皇は77歳で亡くなっているので……。
待ってましたとばかりに、鳥羽上皇も白河法皇と同じことをやり始めた。璋子を遠ざけ、泰子を女御から、皇后へ。宇治に追いやられていた忠実も呼び戻し、その息子の頼長を重用していく。
また、権中納言・藤原長実(ながざね)の娘・得子(とくし)を女御として入内し、体仁(なりひと)親王が生まれると、嵩徳天皇を退位させた。体仁親王、3歳。第76代、近衛天皇となる。嵩徳天皇は上皇となり、鳥羽天皇は法王となった。だが、近衛天皇は17歳で亡くなってしまう。近衛天皇に子供は無く、嵩徳上皇は自分がもう一度天皇になるか、さもなくば我が息子の重仁親王を、次の天皇にと鳥羽法皇に迫る。
ジッチャンにされた仕打ちが忘れられぬ、鳥羽法皇は今度は自分の子供の可能性が強い璋子の生んだ雅仁親王を、第77代後白河天皇として即位させる。この間のすったもんだが、朝廷を真っ二つに分け、合戦の引き金となる。1156年保元元年7月2日、鳥羽法皇は54歳で亡くなり、その9日後に、後白河天皇VS嵩徳上皇の保元の乱が起きる。
長〜い前置きの後の、短い決着の勢力分布……。
後白河天皇(弟) 嵩徳上皇(兄)
‖ ‖
藤原忠直(関白で兄) 藤原頼長(左大臣で弟)
‖ ‖
源義朝(子) 源為義(父)
‖ ‖
平清盛(甥) 平忠正(叔父)
勝利したのは、後白河天皇軍。義朝、清盛が若く昇り調子であったこともあり、彼らの早朝の奇襲作戦が勝利を導いた。嵩徳上皇軍の敗因は、頼長が為義、忠正の作戦をことこどく却下し、来るか来ないかはっきりしない援軍を当てにしていたのと、合戦は昼間に堂々とやるものとの思い込みにあった。頼長は戦死。為義、忠正は斬首。嵩徳上皇は讃岐へ流罪。
だが、この保元の乱は、それまで貴族の警護団に過ぎなかった武士が力を付けるきっかけとなり、3年後には平治の乱を引き起こす。
朝廷の凋落の乱でもあった……。
明日は何の日・7月11日
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