2009年07月09日

(木)黒百合は、熊本で待っていた!

人の性格は決して変わらない!

明日、7月10日は、肥後国人一揆が勃発した日。

1587年天正15年、佐々成政(さっさなりまさ)が豊臣秀吉の九州征伐の功績を認められて肥後(熊本県)の大名に返り咲いた。元は信長時代には北陸担当の武将だったけど、後は何かと秀吉にたて突くものの、何とか秀吉の傘下に入り生き残ってきた。それも秀吉の正室・ねねの口添えによるものだった。

そして、成政と言えば、有名な「黒百合事件」がある。成政は感謝の気持ちとして、ねねに越中・立山に自生する黒百合1本をプレゼントした「立山の奥深くに咲く、珍しい花でございます」ねねは喜び、早速側室たちを集め、黒百合を披露した。正室ゆえ、こんな珍しい花の届け物もあると言うところを側室たち、特に茶々に見せつけたい気持ちがあったに違いない。だが、後日、今度は茶々が、花供養をすると言うので「はて?」と思いながらも行って見れば、部屋一杯に黒百合がそれも手桶に無造作に投げ入れられていた。茶々はすまして言う「下賎な花ゆえ、このようにしております」すっかり、面子を潰されたねね「成政め、珍しい花と言ったくせに、たくさんあるではないか、ようも恥をかかせおって!」

この成政、よく言えば男っぽい性格。逆に細かいことは苦手。特に女性に対してはあまり気配りがなかったと見える。そんな性格が、自分の命を縮めることになろうとは……。

国人とは、地元に根付いた大名の下に位置する武士、国侍・国衆とも呼ばれ、領主が中央から任命され、いきなりやってくるのに対し、彼等国人は何代も前から、その地に住み着いて、それぞれの小国を仕切っている。お上の命で新たにやってきた領主としては、その扱いが難しい。中でも肥後(熊本県)は特に国人の勢力の強いところだった。

佐々成政が領主として赴任するに当り、秀吉はアドバイスした「統治の難しいところゆえ、じっくりと時間をかけ、3年間は国人の領地をそのままに、検地も行わないように」

だが、この成政の性格がすぐに変わるはずもなく、赴任するや否や、秀吉のアドバイスなどすっかり忘れ、国人を支配下に治めるべく早速に領地の一部を削減し、検地を開始した。

そして、ついに、国人の一人、隈府城・隈部親永(くまべちかなが)が成政に反発して挙兵。これに呼応するように他の国人の挙兵も相次ぎ、一気に3万の兵が成政の居城・隈本城を取り囲んだ。9月になって、筑後(福岡県)柳川城主・立花宗茂が援軍を派遣するものの、成政の軍と合わせても1万にもならず、一揆軍に対抗できるはずもなく、隈本城は孤立。

ついに、秀吉の手を煩わすことになってしまった。秀吉の命により、10月下旬、毛利輝元が一揆軍の居城、田中城を包囲。寝返り工作を仕掛け、切り崩し戦実施。12月2日、一揆の中心人物、隈部親永が降伏し、一揆は終わった。

一揆の責任をとって、佐々成政は切腹。このときは、ねねも口添えしてくれなかった……。

その後の肥後は、小西行長が南部に、加藤清正が北部に入り、隈本城は、後に熊本城と名を変え、天下の名城となった。


明日は何の日・7月10日
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posted by 松本萌花 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史ミステリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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