明日、7月8日は、豊臣秀吉が、太閤検地、刀狩を行った日。
と言っても、この二つを同時に行ったのではなく、太閤検地は、1582年天正10年、刀狩は1588年天正16年と、6年の開きがある。検地の片が付いたので、次は刀狩となったのだろうけど、どうして、同じ7月8日なのかはわからない。たまたま、同じ日になったとも考えられなくもないけど、何かと「ゲンかつぎ」の好きな戦国武将。大閤検地がうまくいったので、刀狩も同じ日にと言うところだろうか。
中世の荘園は一つの土地に多くの人が群がる複雑なもので、土地を耕す、作職。その上に名主職。その上の荘園の荘官。また上に、荘園領主がいて、それぞれが自分の地位に伴う取り分をその土地から得ていた。
多くはその領主にも、本家・分家があったり、土地を耕すものにもその下に小作がいたりと、やっぱり複雑。そんな荘園制度に終止符を打ち、一つの土地に、一作人と決めたのが、太閤検地(このとき、秀吉は太閤ではなかったけど、後に太閤になってからは、ただの検地ではなく、太閤検地と呼んだ)
秀吉は全国に検地奉行を派遣。六尺三寸(約191センチ)四方を一歩(ぶ)とし、さらに三十歩を一畝(せ)十畝を一段。十段を一町と言う単位で計測し、その面積から取れる穀物の分量を全国一律の京枡で量り、一段当りの生産力と米の収穫量で表した。
この京枡とは、縦・横が四寸九部(約15センチ)深さ二寸七分(約8.2センチ)升で量る単位も、合、升、斗、石とし、この一石当りの標準収穫量を石盛(こくもり)と言い、石盛に面積をかけたのが、いわゆる石高。一石は約140〜150キログラム。そうやって、計算した村の石高を登録し、その3分の2を年貢として領主の大名に納めることにした(村請制)
この石高制導入によって、大名の上下関係も明白になり、合戦時の奉仕もこの石高によって、負担が決まった。
だが、いつの時代にも新しいことには反発がつきもの。そこで秀吉は言った。武士、土豪、百姓達のいずれにも納得のいくまで説明しろ。それでわからないものは城主クラスでも斬れ。村中で抵抗したら、村ぐるみ斬れ。それによって、そこが耕す者がいない土地になっても構わない。お前たちが出来ないのなら、俺が行ってやる。
この検地法は江戸時代になっても受け継がれた。
6年後の刀狩は、名目は「方広寺の大仏建立のための釘(くぎ)や、鎹(かすがす)に使うため」で「刀、脇差、槍、鉄砲を提出しろ」と言うものだったけど、理由のない武器を持たせておいて、年貢を納めずに一揆でも起こされたら大変、と言うのが本音。
また、農民は、商人、職人と兼業することを禁止、農業に専念するようにさせた。
信長が初めて行った「兵農分離」を、秀吉が完成させ、ここに、封建的身分制度の基礎が整った。
現在は、封建的身分制度はないけど、経済的身分制度になっている……。
明日は何の日・7月8日
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