明日、7月5日は、小田原城が開城した日。
1590年天正18年のこと。城攻めの天才豊臣秀吉により、北条氏は五代でその幕を閉じた。
1585年天正13年、四国。1587年天正15年に九州を制圧した秀吉。残るは関東と奥州。この二つを制圧すれば、秀吉の天下は目前。それでも、秀吉は北条氏の当主、氏直の方から上洛し「秀吉の傘下に」と言ってくるのを待っていた。それがなかなか言って来ない。
そんな中、北条氏の領土の中にポツンとある真田昌幸の上野名胡桃城(うえのなぐるみじょう)を、北条方の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が攻めたことをきっかけに、天正18年3月、秀吉は20万の大軍を率いて出陣した。
3月29日 駿河山中城(静岡県)
4月20日 上野松井田城(群馬県)
5月22日 武蔵岩附城(埼玉県)
6月14日 武蔵鉢形城(埼玉県)
6月24日 伊豆韮山城(静岡県)
こんなにも短期間に城を落とせたのには、秀吉の機を見る作戦や攻撃手腕もあったけど、北条氏側が「防御体制は本拠地の小田原城一点に絞っていた」ことにもよる。
小田原城は城郭の強固な城。これまでにも城に篭って勝利を収めている。上杉謙信とは1ヶ月以上戦った。武田信玄に包囲されても落ちなかった、小田原城。
今回の秀吉の城攻めに対しても、新たな修理を行い、15歳から60歳までの百姓・商人・職人を総動員して、軍備、兵糧、領内支城の城主を小田原城に集め、防衛に主力を注いでいた。
片や、秀吉は城攻めを得意としていた。また、城攻めの難しさも知っていた。そこで、知恵と財力にものを言わせる作戦を取った。鳥取の城攻めの前には近江・敦賀の商人に城下の米を「京は米不足なので、高値で買い取ります」と、城下の米をごっそり買い集めさせた。その後、兵糧攻めを開始、4ヵ月後には城を落とした。
備後・高松城の水攻めでは、多くの金で近隣の農民を刈りだした。貧しい農民達は多額の報酬に釣られて、堤防工事に参加した。
だが、今度は手ごわい小田原城。まず、九鬼水軍、毛利水軍を使って、海上の補給路を遮断。各地から、20万石の蔵入り米を駿河、清水港に集め、敵に回さないのと同時に自軍の兵糧を確保した。黄金10万両を使い、伊勢から駿河にかけての東海諸国の米を買い集めた。このとき、小田原城には1年分の米があった。だが、秀吉軍は2年分の米を持っていた。
急に人口が増えた秀吉軍の周囲には、商人や、遊女までやってきて、城下町のような賑わいだった。持久戦になるとすることがない。秀吉は正室のねねに頼み、茶々を呼び寄せた。だが、ねねは京極竜子も送り込んだ。この竜子、かなりの美人でさらに床上手。秀吉の足はつい、竜子の方に……。総大将がこんな有様だから、配下の兵たちも毎日がお祭りみたいなドンチャン騒ぎ。
一方の小田原城の中も昼間は、双六や将棋で時間を潰していた。1年分の米があるのだから、余裕をこいていた。
まさに、アウトドアとインドアの対決!
だが、インドア派は、外の賑わいが気になってきた。まるで、そこに都市が出現したような賑わいを見せている。篭城には絶対の自信を持っていたけど、今度ばかりはいつもと勝手が違う……。
いつまで経っても結論のでない長い話し合いのことを「小田原評定」と言う。その言葉の語源になったのが、このときの小田原城内での会議。
次第に不安になってきた小田原城内での、延々と結論の出ない会議。そして、一人、また一人と投降者が出始め、城内の士気も下がっていった。
そして、1590年天正18年7月5日、北条氏政、氏直親子が降伏。小田原城開城。氏政、氏輝(氏政、弟)は7月11日城下で自刃。当主、氏直、氏規(氏政、弟)は高野山に追放。
ここに、戦国スター第1号の北条早雲(以下参照)に始まった北条氏は5代で滅亡。
秀吉はその足で奥州に向かった……。
2009年6月24日「(水)スター誕生!負けたボクは罰ゲーム?」
明日は何の日・7月5日
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