757年天平宝字元年、クーデターに失敗した、橘奈良麻呂以下、多くの人間が捕えられ、杖(むちうち)により死去、または流罪となった。でも「続日本書紀」によれば、首謀者であるはずの奈良麻呂の名前はそこにはない。消されている。
なぜ……。
藤原仲麻呂は、藤原4兄弟の1人、武智麻呂の次男。幼少から学才に秀でていて、天然痘で4兄弟が相次いで亡くなると、皇族、橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭し、仲麻呂と激しく対立した。仲麻呂はオバである光明皇后に取り入り、次第に政権を掌握していく。
749年、光明皇后の娘である、孝謙天皇が即位。実権は光明皇后にあり、仲麻呂は光明皇后のために官職・皇后職(こうごうぐしき)を設け、そこの長官に就任した。当然、娘の孝謙天皇もママと同じく仲麻呂ひいき。面白くないのが、諸兄。最高位の左大臣である自分を差し置いて、すべては仲麻呂の思いのままにことは運んでいく。
755年、諸兄は酒宴の席で、朝廷を誹謗したと密告があり、失脚。諸兄は2年後に失意のうちに病死する。
女性の天皇とは、跡継ぎがいない、まだ、小さいうちの取りあえずのつなぎでしかないし、結婚も認められてない。そこで聖武上皇は亡くなる前に、立太子に道祖王(ふなどのおおきみ)を推した。でも、聖武上皇が亡くなると孝謙天皇によって道祖王は廃せられ、仲麻呂が押す大炊王(おおいのおおきみ)が立太子となった。そうした仲麻呂の専横ぶりと父の横死に憤慨したのは、諸兄の息子の奈良麻呂。
757年、奈良麻呂は同志を集めて、叛乱を計画。仲麻呂を殺し、孝謙天皇を退位させ、立太子も廃し、塩焼、道祖、黄文(きふみ)安宿(あすかべ)の4王の中から天皇を擁立することとした。同志は小野東人(おののあずまびと)佐伯全成(さえきのまたなり)大伴古磨呂(おおとものこまろ)多治比犢養(たじひのうしかい)加茂角足(かものつのたり)など、20人余り。
だが、実行前にこの計画は漏れ始めた。主だった者が捕えられたけど、光明皇后は「お前たちは皆私の親族。謀反なんてうわさは信じられない。何かの間違いでしょ。信じています」と、その日は何事もなく帰された。面白くないのが、仲麻呂。
翌日、再び彼らを捕え、ほとんどの者は杖刑(死ぬまで杖で叩く)で命を落とし、流罪になった者も数知れず。
なのに、事件の記録には橘奈良麻呂の名前がない。このことは後に、奈良麻呂の孫娘が嵯峨天皇に入内したことから、彼女が消させたのではないかと憶測を呼んでいるけど、仲麻呂が、本当の意味で奈良麻呂を抹殺したのではないだろうか。奈良麻呂の名を歴史に残させないために、奈良麻呂の存在自体を消したかったのではないだろうか……。
クーデターを未然を防いだとして、仲麻呂は「暴乱に押し勝つ強さ」と「美しさに恵まれるように」との願いを込めた「恵美押勝(えみのおしかつ)」と言う名前を、孝謙天皇からプレゼントされ、名実ともに朝廷のトップとなった。めでたし、めでたしのはずだったのに、調子にのりすぎて、後に「恵美押勝の乱」を引き起こしている。
なんで、アンタは、抹殺したヤツと同じことをやったのさ……。
明日は何の日・7月4日
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