607年推古15年に、小野妹子は遣隋使として、煬帝(ようだい)への国書を携え中国へ渡った。その国書の内容とは例の「日出(い)ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや。云々」と言うもの。これ、わかりやすく説明すると「私は日が昇る国の偉い人。あなたは日が没する国の偉い人。ところで、最近調子どう」今で言うタメ口。
実は、この7年前にすでに、誰かから派遣され日本の使節団が訪問していることが中国の史書に記録されているのに、日本では小野妹子が第一回派遣となっているし、聖徳太子そのものも、その実在さえ、現在は疑われているけど、そこのところは置いといて取りあえず、教科書通りに話を進めます。
この「日出ずる国の……」の手紙を読んだ煬帝はいたくご立腹!なんせ、当時の中国は「世界一の強国」と自負していた。周辺諸国は下位の臣下であり、貢物を献上しに来るくらいにしか思ってなかった。
そんな下位の国から、対等な物言いをされれば怒るに決まっている。まして、日出ずる国と、日没する国では、日出ずる国の方がカッコイイ!
それでも煬帝は、裴世清(はいせいはい)を答礼の大使として、小野妹子の帰国とともに、日本へ行かせている。そのときに、手紙の返事も小野妹子に託している。なのに、小野妹子はその手紙・国書を途中で紛失してしまった……。小野妹子の言い分によれば、手紙の紛失は帰国途中の百済(くだら)で百済人に襲われたときに盗まれたと言う。
そんな事件があったのなら、中国人も知っているはず、でも、彼らはそんなこと一切言ってない。逆にもし紛失したことを、裴世清が知って、煬帝の知るところとなれば「なんと、軽率な!」とさらに怒りが爆発してしまう。
命に代えても守らなければならない国書を紛失したとなれば、初代・遣隋使の名が廃る。小野妹子は大失態をやらかした。さぞや、重い処分……とはならなかった。なんと、お咎めなし。それどころか、翌年、裴世清が帰国と同時にまたも派遣された。第二回遣隋使に小野妹子はまたまた大使となった。その帰国後には「大徳」と言う官位、十二階の最高位を賜っている。
現在では、手紙は紛失したのではなく、わざと隠蔽(いんぺい)したのではと見られている。
これは聖徳太子のはったりだった。煬帝の一番の関心事は、朝鮮半島の情勢であり、朝鮮の三つの国がいつ敵に回るかもしれない状況では、日本を絶対味方に付けておきたい。なので、ちょっとくらい大きなことを言っても、兵を出したり、国交を断絶させたりしないだろうとの計算から、聖徳太子ははったりをかました。
隋と対等に交易をするためのはったりであるとともに、国内の豪族に対してのはったりでもあった。当時の聖徳太子のライバルは年が倍以上も違う、曽我馬子。その他の豪族や臣下たちも年上のうるさ方ばかり。若い聖徳太子は、そんな者たちにちょっとは自分のすごいところを見せておきたかった。
そこで、対等の物言いをした手紙を送る。隋の皇帝への国書だから、その内容は臣下も皆知っている。
その国書に煬帝は怒る。返事は怒り爆発の「アホ・バカ」羅列?文書。このまま返事の内容を皆に発表するわけには行かない。そこで、無くしたことにする。
答礼大使・裴世清の身分は外交官。相手の国の貴族・大臣達とは常に友好ムード。社交辞令で接するはず。それを見れば、日本ではなんとなくあの手紙が受け入れられたように思ってしまう。
国書を紛失すると言う大失態をやらかした、小野妹子が再び遣隋使となり、官位も上がる。それは聖徳太子ののメンツを守っためだった。イヤ、無くしたことにして、聖徳大使にだけは手紙を見せた。
その煬帝の返事が現存してないのは、見るに耐えないことが書かれてあったのを、聖徳太子が破り捨てた……。
明日は何の日・7月3日
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