2009年02月20日

(金)日本初の新聞を発行したのは、幕末の徳川幕府だった!

明日、2月21日は、日刊新聞創刊の日。

1872年明治5年「東京日日新聞(現・毎日新聞)」が条野彩菊(戯作者)西田伝助(本屋の番頭)落合幾次郎(浮世絵師)が東京・浅草の日報社から創刊した東京最初の日刊紙が刊行された日。

この年は鉄道が開通、東京大阪間の電信開通、全国に郵便制度が施行され、通信業務の発展とともに「東京日日新聞」以外にも「郵便報知新聞(栗本鋤雲(くりもとじょうん)主幹)」最初の地方紙「峡中(こうちゅう)新聞(後の山梨日日新聞)」イギリス人ブラックの「日新真事誌」など全国で多数の新聞が創刊された。

明治初期には新聞は必ずしも日刊ではなかった。それが東京日日新聞はその名の通り「日刊」を打ち出し、1875年明治8年には、世界初の新聞戸別配達を実施すると言う画期的なことをやってのけた。1911年明治44年「大阪毎日新聞」との合併で「東京日日新聞」の名前を残すことを条件に、大阪毎日新聞の傘下に入り、全国紙として第一歩を踏み出した。

「大阪毎日新聞」は1876年明治9年2月、大阪日報社として創刊、1888年明治21年、大阪毎日新聞と改題した。明治初期、政治色が強く経営が振るわなかったが、1889年明治22年から温和な論調に転換、広告収入の効果もあって「大阪朝日新聞(現・朝日新聞)」と並ぶ、関西の有力紙となっていた。その後、1943年昭和18年1月1日号から「大阪毎日新聞」と「東京日日新聞」が題号を統一し「毎日新聞」現・毎日新聞社となった。

だが、実際は、1870年明治3年12月(新暦1871年1月1日)に創刊された「横浜毎日新聞」が日本初の日刊紙。それまでの新聞は半紙2つ折または4つ折の冊子体だったのに対し、西洋紙に初めて鉛の活字で印刷、貿易都市横浜の経済情報誌で、関東一円に読者を獲得以降「東京横浜毎日新聞」「東京毎日新聞」と名を変え、1940年昭和15年まで存続していた。尚、現在の毎日新聞、毎日新聞社とは全く関係ない。

なのに、現在の毎日新聞が「日本最古の日刊紙」と名のっているのは、「東京日日新聞」が1943年昭和18年、現題号に変更されたことによる。つまり「横浜毎日新聞」の発行以降「東京日日新聞」の発行までに創刊された日刊紙はすべて消滅しているので、そういうこと。

日本初の新聞は1915年元和元年、大坂の夏の陣の報道がかわら版(読売り、辻売り草紙)として発刊されたもの。その後、かわら版は盛んになり、幕府を批判・中傷するものが多く、1673年寛永13年、出版規制例により、規制されることとなった。だが、1855年安政2年の大地震により、かわら版は多数発行され、特に「安政見聞誌(あんせいけんもんし)」は江戸安政大地震のルポルタージュで、発禁本となった。それは内容の風刺性より、無届出版であったことによるもの(作者は仮名垣魯文(かながきろぶん)二世・一筆庵英寿。魯文は名前を隠しておいたので処罰は免れた)

だが、幕末、1861年文久元年になると、横浜、長崎の居留地で外人の手による英字新聞が創刊された。これが日本初の新聞であり、居留地は治外法権なので、幕府も取り締まれなかった。幕府は長い間、ジャーナリズムを封じ込める政策をとってきたが、その政策の転換を迫られる時がやってきた。翌年、幕府自らが、翻訳新聞を次々と刊行した。内容は横浜の群小の英字新聞の翻訳であったけど、その狙いは尊皇攘夷派に、国際情勢を周知させ、開国の正当性をPRするものだったけど、尊皇攘夷派の脅しによって市販を中止している。

1868年慶応4年2月から5月、幕府と新政府の対立が最終局面を迎える。新政府は2月23日、京都において「太政官日誌」を創刊、政府・官軍の上位下達のメディアとした。翌日、幕府柳河春三(やながわしゅんさん)らが「中外新聞」を創刊、これが日本人自らの最初の新聞となる。

佐幕派、幕府を心情的に支持する江戸っ子の間で読まれ、特に福地桜地(ふくちおうち)の「江湖(こうこ)新聞」は、幕府方を弁護し、官軍の残虐さを論じる過激な内容だった。その新聞を千部前後を東日本で売ったが、上野の彰義隊が打たれるに及んで、いずれの新聞も廃刊させられた。福地桜地は官軍によって、危うく処刑されるところだった。

東日本の治安が解消され、明治政府の全国支配が確立した1869年明治2年3月、新聞の発行が解禁となり、翌年「横浜日日新聞」が創刊された。明治初期の新聞は民間紙であったが大部分は中央・地方の行政当局の支援を受けていた。日刊紙は大蔵省が一府県につき三部買い上げていた。だが、政府の御用新聞に読者の関心は高まらなかった。

この停滞を破ったのがイギリス人のブラック。「日新真事誌」で民政議員設立建白書をスクープした。この建白書は政府の有司専制を抗議した板垣退助らにより、左院に提出されており政府の機嫌を損ねることが予想されていたが、社主のブラックが敢えて掲載したもので、上位下達のメディア化していた新聞経営の回復を図る狙いがあった。以来、民衆は政府発表のジャーナリズムから、脱却した新聞を歓迎した。

そんな新聞には「大(だい)新聞」と「小(こ)新聞」がある。大新聞は紙幅が広く、文語体で書かれた政治中心の新聞。東京日日新聞がこれに当る。小新聞は艶種、警察種、忠君種、孝行種の連載に加え、センセーショナルな事件を談話体でつづったものに、ルビがふってある。だが、大新聞には娯楽がなく、小新聞には言論がないのが欠点だった。そして、次第に大新聞は衰退していき、小新聞は伸びていく。東京では「読売新聞」が、大阪では「朝日新聞」が小新聞の代表として成長していった。

だが、当時の新聞には絵も写真もなかった。そこで、明治7年から9年頃、新聞記事を錦絵に仕立てて絵草紙屋から出版され「錦絵新聞」と呼ばれた。

代表的なものは、東京日日新聞、郵便報知新聞で、今の週刊誌2ページ分の大きさ。殺人、色事、美談、珍談、奇聞などで、今で言う写真週刊誌的なものだった。その最初は1872年明治5年、日刊紙の記事を元にした錦絵シリーズであり、
本紙の題号をそのまま掲げた、落合芳幾(よしいく)絵による、錦絵版「東京日日新聞」が1874年明治9年8月に発刊されると、それにならうかのように月岡芳年の「郵便報知新聞」小林永濯の「各種新聞図解」など、約40種の錦絵新聞が発行された。

この錦絵新聞と言うものは大層美しいもので、芸術的価値もあり、そのサイトもあるので、是非ご覧になってください。

それにしても、日本人の日本人による最初の新聞が幕府が発行したものだったとは。

どんなことが書いてあったのだろうか……。
江戸っ子に何を訴えたのだろうか……。


明日は何の日・2月21日
かわいい国際母語デー
かわいい食糧管理法公布記念日
かわいい日刊新聞発刊の日
かわいい漱石の日
かわいいふれ愛交番の日
かわいい漬物の日





























































posted by 松本萌花 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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