2009年02月19日

(木)日本初のパスポートは、芸人!

みんな、忘れ去られてしまった……。

明日、2月20日は、旅券の日。

1998年平成10年に、外務省が制定した。明治11年2月20日「海外旅券規則」が制定され、旅券と言う言葉が初めて法令上で使用された日。それまでは「御印章」「海外行免状」「旅切手」「免状」「免許」といろいろあった。

外務省によれば、日本の有効パスポートは3.300万冊、つまり、4人に1人がパスポートを持っている。それはいいけど、国内での紛失・盗難は3万6000冊、海外では1万冊とかなりの高い数字を示している。紛失・盗難にあったパスポートは偽造パスポートとして犯罪に使われてしまうので、くれぐれもパスポートの管理は慎重に。

また、アメリカは2004年10月26日より「機械読み取り式でない旅券」を所持している外国人のアメリカへの入国(通過も含む)の場合、入国前に査証(ビザ)を取得することを求めている。これまで「機械読み取り式旅券」があるないに関わらず、査証(ビザ)免除プログラム対象国である日本旅行券所持者の短期滞在目的の入国に当っては、査証(ビザ)を免除してきたが、アメリカはその方針を変更した。

アメリカに短期滞在目的入国については、従来は免除されていた査証(ビザ)が新たに必要とされる。査証(ビザ)申請者は書類提出時に、在日米国公認の領事担当官より、本人確認やアメリカ渡航目的等に関する面接を受け、併せて、申請者の両手の人差し指の指紋をスキャナーで電子的に採られる。アメリカは2001年11月9日の、同時多発テロ以降、外国人の出入国を厳格にしている。(指紋採られてまで、アメリカに旅行したいだろうか)

では、日本初のパスポートは誰に発行されたのだろうか。役人?政治家?金持ち?これが意外な人物!

明治11年に「海外旅券規則」ができたのだから、その頃に初めてパスポートが発行されたと思ってしまうけど、ナント、日本初のパスポートは、1866年慶応2年。それまで鎖国政策を強いてきた徳川幕府であるけど、開国を迫られていることもあり、庶民に海外留学や商人のための海外渡航を許可することにした。その発券第一号は、隅田川浪五郎(すみだがわなみごろう)と言う曲芸師。他の曲芸師チームと「日本帝国一座」を組み、アメリカやパリ万博やヨーロッパでの海外公演をするための渡航手続きだった。

パスポートと言っても、当然今のような小冊子のようなものではなく、留学経験者やフランスの役人の話を元に、1枚の和紙に写真の代わりに、墨で申請者の特徴が書かれたものだった。その写しは今も残っている。正式には「海外行御印章」といい、注目すべきは真ん中に「日本政府許航侘邦記」の朱印が押してある事。

□江戸  神田相生町 源蔵店浪五郎(神田相生町、現在の秋葉原周辺)
□年   37歳
□身の丈5尺(身長151.5センチ、江戸時代男子の平均身長155センチ〜157センチ)
□眼   中之方(中くらい)
□鼻   高き方(鼻は高い)
□口   中の方
□面   細長方(面長、細面)

また、末尾には慶応2年10月17日の日付けで、幕府の日本外国事務方の記述がある。

「書面之者亜国に香具渡世として相越度旨願に因て此の証書を与へる間、途中何の国にても無故障通行せしめ、危急之節は相当之保護有之候様、各国官吏へ頼入候」

わかりやすく書けば。
「書面の者は、隅田川浪五郎で亜国に香具渡世として、あいこしたきむね、願いによりて、この証書を与へる間、途中いずくの国にても故障なく通行せしめ、危急の節は相当の保護されたり候様、各国官吏に頼み候」

つまり「このこの書面の者はアメリカ合衆国へ行き、香具師(やし、見世物などの大道芸人)として、渡世(芸人家業での生活)を送るため、渡航したいと願い出たので、許可証を出す。各国のお役人方は旅行中支障のないよう、事故のないよう、保護していただきたい」(実際の旅券の左端には、英文でこの趣旨が短く書かれている)

隅田川浪五郎率いる「日本帝国一座」は隅田川一家5人(妻、息子、妹、同居人の男性)足芸の浜碇(はまいかり)定吉一家は7人、曲独楽(こま)回しの松井菊治郎一家は5人、一座のマネージャー格、高野広八の合計18名。横浜から船で、西海岸へ到着、サンフランシスコとニューヨークで公演は大成功。引き続きヨーロッパ各地を巡業し、最後はパリ万博と、2年4ヵ月後に帰国。

だが、正式なパスポート発行に関しては、隅田川浪五郎が第一号であるけど、当時の日本の曲芸のレベルは高く、海外からも引き合いがあり時を同じくして、いくつもの曲芸一座が渡航している。帝国日本一座が出航したのは慶応2年10月29日だけど、その4日前に横浜からイギリスへ向けてサーカス一座・松井源水一座が出航している。その他にも、林虎吉一座、鉄割福松(かねわりふくまつ)一座、鳥潟小三吉(とりかたこさんきち)一座等。

そして、帝国日本一座を1年千両で2年拘束したのが、アメリカの興行師・ベンコツであるとも、リズレーであるとも、ここのところははっきりしないけど、いずれにしても慶応年間に、日本をいち早く飛び出したのが、芸人達だった。

だが、幕府は時を同じくして、イギリスに留学生を送っている。それが慶応2年10月であることはわかっているけど、詳しい日にちはわからなかった。そのときの船には芸人一座ものっていた。それは帝国日本一座であるともされているけど、帝国日本一座は西海岸に向かっているし、推測するに、松井源水一座ではなかっただろうか。

でも、同じ船に、幕府公認の留学生と、金に釣られた芸人達がのっている。留学生たちは一等船室で、芸人達は雑魚寝のような船室であったことは容易に想像できるけど、それにしても、同じ船に揺られながら、片方はあまりにも忘れ去られてしまっている……。

ただ、ニューヨークで、鉄割一座の人気若太夫と、帝国芸人一座の女三味線弾き、登宇(とう)の逢引がバレ、鉄割福松は帝国芸人一座に詫び状を入れている。

だが、それだけで終わらないのが芸人!ナント、その逢引していた登宇は、ロンドンで浜碇定吉との間の女の子を生んでいる。このことは外国で生まれた初めての日本人として、イギリスメディアでも大きく取り上げられた。

なのに、初の外国生まれである日本女子の、その後の消息もわかってない。とにかく残っているのは、隅田川浪五郎へ発行したパスポートの写しだけ……。

いくら、芸人の身分が低い時代とは言え、ここまで知らん顔しなくても。こうやって、歴史に埋もれてしまった芸人もいる……。

中山功太さん、R−1グランプリおめでとう!


明日は何の日・2月20日
かわいい旅券の日
かわいいアレルギーの日
かわいい普通選挙の日
かわいい歌舞伎の日
かわいい愛媛県政発足記念日
かわいい尿漏れ克服の日
かわいいマイカーチェックデー
かわいいワインの日
かわいい頭髪の日







posted by 松本萌花 at 04:00| Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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