2009年07月10日

(金)ジッチャンの骨・肉・血、雨アラレ と降る!

やっぱり家庭内争議なんです……。

明日、7月11日は、保元の乱のあった日。

1156年保元元年7月11日の明け方に始まった、保元の乱は4〜5時間で決着が付いた。なんじゃ、そら……。

冷え切った親子関係に、これまた冷え切った親子・親戚達がそれぞれにくっ付いた、天皇家の家庭内争議……。

第73代堀河天皇の第一皇子・鳥羽天皇(宗仁親王)は、生れてすぐに母を亡くしたため、祖父の第72代白河法皇の元で育った。その後、父の堀河天皇が亡くなったので、5歳で即位。当然、政権は白河法皇の思いのまま。15歳の時、権大納言藤原公実(きんざね)の娘で白河法皇の養女となっていた、璋子(しょうし)が女御として入内。でも、この璋子、養女とは名ばかりで、白河法皇の愛人。それも元ではなく現役。翌年、中宮となってもその関係は続いていた。

そして、璋子中宮は顕仁(あきひと)親王を生む。鳥羽天皇はこの子を「叔父子(おじご)」と呼んでいだ。どう考えても、ジッチャンの子に違いない。

それで面白いはずがない鳥羽天皇は、顕仁親王が生れた翌年、1120年保安元年、白河法皇が熊野に参詣している隙に、関白・藤原忠実(ただざね)の娘・泰子(たいし)を入内させ、白河法皇の機嫌を損ねている。忠実は関白の座を追われ、宇治に引きこもることになった。

顕仁親王が5歳の時、白河法皇はまだ21歳の鳥羽天皇を無理やり退位させ、顕仁親王を即位させた。白河法皇の圧倒的権力に立ち向かう術もなく、かくして、第75代、嵩徳天皇が誕生した。

1127年大治2年、璋子は雅仁親王を生む。今度は鳥羽上皇の子供のよう。その2年後の1129年大治4年、白河法皇は77歳で亡くなっているので……。

待ってましたとばかりに、鳥羽上皇も白河法皇と同じことをやり始めた。璋子を遠ざけ、泰子を女御から、皇后へ。宇治に追いやられていた忠実も呼び戻し、その息子の頼長を重用していく。

また、権中納言・藤原長実(ながざね)の娘・得子(とくし)を女御として入内し、体仁(なりひと)親王が生まれると、嵩徳天皇を退位させた。体仁親王、3歳。第76代、近衛天皇となる。嵩徳天皇は上皇となり、鳥羽天皇は法王となった。だが、近衛天皇は17歳で亡くなってしまう。近衛天皇に子供は無く、嵩徳上皇は自分がもう一度天皇になるか、さもなくば我が息子の重仁親王を、次の天皇にと鳥羽法皇に迫る。

ジッチャンにされた仕打ちが忘れられぬ、鳥羽法皇は今度は自分の子供の可能性が強い璋子の生んだ雅仁親王を、第77代後白河天皇として即位させる。この間のすったもんだが、朝廷を真っ二つに分け、合戦の引き金となる。1156年保元元年7月2日、鳥羽法皇は54歳で亡くなり、その9日後に、後白河天皇VS嵩徳上皇の保元の乱が起きる。

長〜い前置きの後の、短い決着の勢力分布……。

後白河天皇(弟)        嵩徳上皇(兄)
   ‖                 ‖
藤原忠直(関白で兄)     藤原頼長(左大臣で弟)
   ‖                 ‖
源義朝(子)           源為義(父)
   ‖                 ‖
平清盛(甥)           平忠正(叔父)

勝利したのは、後白河天皇軍。義朝、清盛が若く昇り調子であったこともあり、彼らの早朝の奇襲作戦が勝利を導いた。嵩徳上皇軍の敗因は、頼長が為義、忠正の作戦をことこどく却下し、来るか来ないかはっきりしない援軍を当てにしていたのと、合戦は昼間に堂々とやるものとの思い込みにあった。頼長は戦死。為義、忠正は斬首。嵩徳上皇は讃岐へ流罪。

だが、この保元の乱は、それまで貴族の警護団に過ぎなかった武士が力を付けるきっかけとなり、3年後には平治の乱を引き起こす。

朝廷の凋落の乱でもあった……。


明日は何の日・7月11日
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タグ:保元の乱
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2009年07月09日

(木)黒百合は、熊本で待っていた!

人の性格は決して変わらない!

明日、7月10日は、肥後国人一揆が勃発した日。

1587年天正15年、佐々成政(さっさなりまさ)が豊臣秀吉の九州征伐の功績を認められて肥後(熊本県)の大名に返り咲いた。元は信長時代には北陸担当の武将だったけど、後は何かと秀吉にたて突くものの、何とか秀吉の傘下に入り生き残ってきた。それも秀吉の正室・ねねの口添えによるものだった。

そして、成政と言えば、有名な「黒百合事件」がある。成政は感謝の気持ちとして、ねねに越中・立山に自生する黒百合1本をプレゼントした「立山の奥深くに咲く、珍しい花でございます」ねねは喜び、早速側室たちを集め、黒百合を披露した。正室ゆえ、こんな珍しい花の届け物もあると言うところを側室たち、特に茶々に見せつけたい気持ちがあったに違いない。だが、後日、今度は茶々が、花供養をすると言うので「はて?」と思いながらも行って見れば、部屋一杯に黒百合がそれも手桶に無造作に投げ入れられていた。茶々はすまして言う「下賎な花ゆえ、このようにしております」すっかり、面子を潰されたねね「成政め、珍しい花と言ったくせに、たくさんあるではないか、ようも恥をかかせおって!」

この成政、よく言えば男っぽい性格。逆に細かいことは苦手。特に女性に対してはあまり気配りがなかったと見える。そんな性格が、自分の命を縮めることになろうとは……。

国人とは、地元に根付いた大名の下に位置する武士、国侍・国衆とも呼ばれ、領主が中央から任命され、いきなりやってくるのに対し、彼等国人は何代も前から、その地に住み着いて、それぞれの小国を仕切っている。お上の命で新たにやってきた領主としては、その扱いが難しい。中でも肥後(熊本県)は特に国人の勢力の強いところだった。

佐々成政が領主として赴任するに当り、秀吉はアドバイスした「統治の難しいところゆえ、じっくりと時間をかけ、3年間は国人の領地をそのままに、検地も行わないように」

だが、この成政の性格がすぐに変わるはずもなく、赴任するや否や、秀吉のアドバイスなどすっかり忘れ、国人を支配下に治めるべく早速に領地の一部を削減し、検地を開始した。

そして、ついに、国人の一人、隈府城・隈部親永(くまべちかなが)が成政に反発して挙兵。これに呼応するように他の国人の挙兵も相次ぎ、一気に3万の兵が成政の居城・隈本城を取り囲んだ。9月になって、筑後(福岡県)柳川城主・立花宗茂が援軍を派遣するものの、成政の軍と合わせても1万にもならず、一揆軍に対抗できるはずもなく、隈本城は孤立。

ついに、秀吉の手を煩わすことになってしまった。秀吉の命により、10月下旬、毛利輝元が一揆軍の居城、田中城を包囲。寝返り工作を仕掛け、切り崩し戦実施。12月2日、一揆の中心人物、隈部親永が降伏し、一揆は終わった。

一揆の責任をとって、佐々成政は切腹。このときは、ねねも口添えしてくれなかった……。

その後の肥後は、小西行長が南部に、加藤清正が北部に入り、隈本城は、後に熊本城と名を変え、天下の名城となった。


明日は何の日・7月10日
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2009年07月08日

(水)ほおずきは、頼朝さんだったのね

明日、7月9日は、ほおずき市。

有名なのが、浅草・浅草寺(せんそうじ)のほおずき市。毎年テレビで放映される、あの色と形がなんともかわいい江戸の夏の風物詩。その浅草寺に7月10日にお参りすると、四万六千日(しまんろくせんにち)お参りしただけの功徳がいただけるそうで、毎年おまいりしている人たちは、もう功徳があふれ返って大変なんじゃないかしら。

そのほおずき市の由来は、源頼朝が奥州征伐の帰り道、浅草で兵を休ませたとき、日射病で倒れた兵士達に、ほおずきを食べさせて元気付けたからところから、ここに市が立つようになった。

でも、ほおずきって食べられるものだったの?
私にとっての、ほおずきは花屋で見かけるもの。ほおずきの実の種を抜いたのを口に入れるとキュッキュッと音がして、昔は子供玩具だったらしいけど、昔から、そんなものは売ってなかったし、話にも聞いたことがない。やはり、関東以東のことのようだ。それにしても、ほおずきが食べられるとは、知らなかった……。

ほおずきとは、ナス科の多年草で、原産地は東南アジア。草丈は60センチ〜80センチで、観賞用と食用になる種があり、ヨーロッパでは古くから栽培され、味は甘酸っぱい。日本でも、秋田県上小阿仁村の特産で、北海道でも1995年から、由仁町、江別市で生産されている。

ほおづきは漢字で書くと、酸漿、鬼灯。中国語で小さな赤提灯の意味で「金灯」「錦燈籠」とも書く。そのほおずき市も「ふみつき市」が訛って、ほおずき市になったと言う説があり、鳴らすときにほほが膨らむので「ほほづき」が訛ったとの説もある。また、元旦に食べると病気をしないとかの言い伝えもあるけど、ナス科の植物にはどれも微量の毒があるので、食べ過ぎない方がいい。

また、海ほおずきと言うのもある。私は、こちらも見たことがない。巻貝の卵嚢(らんのう)で、これも口の中で鳴らして遊ぶ子供の玩具。この海ほおずきは、ほおずきほど鳴らすのが難しくない、と言うことは、ほおずきは鳴らすのも難しいらしい。

わからないことが多いので、来年の夏、ほおずき市に行ってみます。行けば、何かわかるでしょう!


明日は何の日・7月9日
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2009年07月07日

(火)6つ違いの「アニさん」と……

日本で最初に、中央集権を成し遂げた人。

明日、7月8日は、豊臣秀吉が、太閤検地、刀狩を行った日。

と言っても、この二つを同時に行ったのではなく、太閤検地は、1582年天正10年、刀狩は1588年天正16年と、6年の開きがある。検地の片が付いたので、次は刀狩となったのだろうけど、どうして、同じ7月8日なのかはわからない。たまたま、同じ日になったとも考えられなくもないけど、何かと「ゲンかつぎ」の好きな戦国武将。大閤検地がうまくいったので、刀狩も同じ日にと言うところだろうか。

中世の荘園は一つの土地に多くの人が群がる複雑なもので、土地を耕す、作職。その上に名主職。その上の荘園の荘官。また上に、荘園領主がいて、それぞれが自分の地位に伴う取り分をその土地から得ていた。

多くはその領主にも、本家・分家があったり、土地を耕すものにもその下に小作がいたりと、やっぱり複雑。そんな荘園制度に終止符を打ち、一つの土地に、一作人と決めたのが、太閤検地(このとき、秀吉は太閤ではなかったけど、後に太閤になってからは、ただの検地ではなく、太閤検地と呼んだ)

秀吉は全国に検地奉行を派遣。六尺三寸(約191センチ)四方を一歩(ぶ)とし、さらに三十歩を一畝(せ)十畝を一段。十段を一町と言う単位で計測し、その面積から取れる穀物の分量を全国一律の京枡で量り、一段当りの生産力と米の収穫量で表した。

この京枡とは、縦・横が四寸九部(約15センチ)深さ二寸七分(約8.2センチ)升で量る単位も、合、升、斗、石とし、この一石当りの標準収穫量を石盛(こくもり)と言い、石盛に面積をかけたのが、いわゆる石高。一石は約140〜150キログラム。そうやって、計算した村の石高を登録し、その3分の2を年貢として領主の大名に納めることにした(村請制)

この石高制導入によって、大名の上下関係も明白になり、合戦時の奉仕もこの石高によって、負担が決まった。

だが、いつの時代にも新しいことには反発がつきもの。そこで秀吉は言った。武士、土豪、百姓達のいずれにも納得のいくまで説明しろ。それでわからないものは城主クラスでも斬れ。村中で抵抗したら、村ぐるみ斬れ。それによって、そこが耕す者がいない土地になっても構わない。お前たちが出来ないのなら、俺が行ってやる。

この検地法は江戸時代になっても受け継がれた。

6年後の刀狩は、名目は「方広寺の大仏建立のための釘(くぎ)や、鎹(かすがす)に使うため」で「刀、脇差、槍、鉄砲を提出しろ」と言うものだったけど、理由のない武器を持たせておいて、年貢を納めずに一揆でも起こされたら大変、と言うのが本音。

また、農民は、商人、職人と兼業することを禁止、農業に専念するようにさせた。

信長が初めて行った「兵農分離」を、秀吉が完成させ、ここに、封建的身分制度の基礎が整った。

現在は、封建的身分制度はないけど、経済的身分制度になっている……。


明日は何の日・7月8日
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2009年07月06日

(月)日本版七夕は、三回目がいい!by彦星

日本の、七夕伝説!

明日、7月7日は、七夕。

私たちが良く知っている、七夕のお話は中国から伝わってきたもので、機織の上手な娘が一心に機を織っているのを見て、父親が真面目な牛飼い青年を引き合わせた。二人はたちまち恋に落ち、結婚。ところが、娘は機織を忘れ、青年は牛をホッポリ出して、いちゃついてばかりいるものだから、怒った父親は二人を天の川を挟んで引き離した。それでもかわいそうに思ったのか、年に一度だけ合うことを許した。

なんて短気な父親なんでしょう。新婚の一時も離れたくない甘〜い蜜月なんて、だいたい3ヶ月くらいで終わる。この父親は例え1日でも機織を休むことが許せなかった、仕事人間!それにしても、年に一度は、あまりにもかわいそうすぎる。なのに、ロマンチックなお話と伝わっているのはどうしてだろう。また、織姫と彦星が恋人同士と思っている人もいるけど、二人は夫婦。その夫婦が年に一度しか会えないかわいそうな日なのに、七夕入籍とかする人もいる……。

でも、日本版七夕伝説は、ある意味、すごい……。

天稚彦(あめわかひこ)は古事記では、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)の息子、天若日子となっている。その天若日子のお話「天稚彦草子」

昔、3人の美しい娘を持つ長者がいました。そこの下女が湖で洗濯をしていると、口に手紙をくわえた大蛇が「言うとおりにしないと絞め殺すぞ」脅し、下女は大慌てで大蛇からの手紙を持ち帰り長者に見せました。手紙には「娘を三人ともよこせ、さもないと皆殺しにするぞ」と書いてあり、姉娘二人は「そんなの絶対、イヤ!」でも、末娘は「私が参ります」

末娘が湖のほとりで待っていると、雷鳴がとどろき、大波の中から大蛇出現。すぐにも食われるかと思ったけど、大蛇が「刀を持っていたら、頭を切ってくれ」と言うので、娘は震える手で、言われるままにしました。すると、どうでしょう、中から現れたのは、超イケメンではないの!

「私は、海竜王の息子、天稚彦」と名のり、二人はたちまち恋に落ち、仲良く暮らすことに。天稚彦は海竜王の息子で、宝物をいっぱい持っていたので、楽しい毎日が続きました。

そんなある日「天に用があり、帰らなければならない。でも、絶対戻ってくるから、待っていてくれ。もし、21日待っても戻ってこない時は、西の京の外れに行くと、一夜瓢(いちやひさご、一夜で天まで伸びる瓜。夕顔らしい)を持っている女がいる。それを買って、天まで昇って来てほしい。それと、唐びつを置いていくけど、絶対、中は開けないように」と言って、天に帰ってしまいました。

天稚彦を信じている娘(もう娘ではないけど)は、宝物がたくさんあるので暮らしには困らないし、夫の言葉を信じ、ひたすら夫の帰りを待っていました。そこにやってきた姉娘たち。あんなに嫌がったくせに、宝物やきれいな着物に囲まれている妹がしゃくにさわって仕方がないのでした。そして、鍵を取り上げ強引に唐びつを開けてしまいました。でも、中からは白い煙が出てきただけで、何も入ってなかったので、二人ともガッカリして帰って行きました。

ところが約束の21日がすぎても天稚彦は帰ってきません。娘は教えられたとおり、西ノ京に行き、一夜瓢を買い、それで天に昇りました。ところが天上界も広いのです。白い狩り着の夕づつ=宵の明星や、箒木(ほうき)を持った童子・ははき星=彗星、七人の童子すばる=昴に聞いても、天稚彦のことは知らないと言います。やっと、玉の輿にのった明月(あかつき)の明星に居場所を聞くことが出来ました。

二人は再会して、と思ったのも束の間、天稚彦の父親の鬼がやってきました。(海龍王の息子じゃなかったの)

あわてて娘を脇息(ひじかけ)や枕に変えて隠していたけど、ある時見つかってしまいました。(自分の妻をどうして隠すの)鬼の父親は、娘が息子の嫁にふさわしいかテストをすると言いました。

まず、牛舎の1000頭の牛を朝は放ち、夕べには牛舎に追い込む。そんなカウボーイのようなことが娘に出来るはずはありません。天稚彦は自分の袖を与え、これを振るようにと言いました。袖を振ると牛は大人しく牛舎に入りました。次は米倉の大量の米を別の倉に移すこと。これも袖を振ると大量のアリが米を運んでくれました。また、蛇やムカデのいる部屋で一晩過ごしたときも、袖があったので大丈夫でした。

そこで、鬼の父親は言いました「では、二人が会うのはひと月に一度としてやろう」それを娘は「ええっ!一年に一度だなんて……」と聞き間違えてしまいました。それを聞いた父親はこれ幸いと一つの瓜を手に取って投げました。瓜は割れて大量の水が天の川となりました……。

かくして、牽牛星と織女星は、一年に一度だけ会えることになりました。

牽牛星が彦星とは天稚彦の彦だったと言うことはわかったけど、娘は一度も機を織ってないし、名前もない。

いつも末っ子は良い役。犠牲になっても報われ、シンデレラのような意地の悪い姉。また、自分の愛する妻を父親に紹介しない天稚彦。さらに、一月と一年を聞き間違えてしまうほど、耳掃除もしない娘。また、それをフォローしない天稚彦。そして、こちらもなんとひどい父親。花嫁の父が婿にイチャモンつけるのはわかるにしても、美人の嫁にも冷たいなんて……。

どこかで聞いたようなお話の寄せ集めみたいな物語だけど、15世紀半ばに創られた、ベルリン東洋美術博物館には絵巻物も残っている、由緒正しい昔話です。

それにしても、今年の七夕はちょっと「困った」ことになってます。現在の七夕は、新暦の7月7日。これは去年も書いたけど、国立天文台のホームページによると、七夕の日にちは、毎年違ってるんです。

2009年 8月26日(水)
2010年 8月16日(月)
2011年 8月 6日(土)
2012年 8月24日(金)

今年はなんと!8月26日。忘れてしまいそう……。別に忘れてもよさそうなものだけど、私は七夕は年に2回やることにしてます。通常の7月7日と、国立天文台のホームページに倣って。七夕をやると言っても、その日は五色そうめん(トッピングが五色)を食べるくらいなんだから、8月の終わりのそうめんも行く夏を惜しみながら食べればいいだけのこと。

でも、これは私の都合でしかないけど、通販で買った毎月の月飾りをアナログテレビの上に飾っている。7月は当然、七夕。小さい(本当に小さい)織姫と彦星の人形を飾る。飾り見本の写真は、天の川(白い石状の粒)をはさんで向かい合うのだけど、私は並んで天の川を眺めるように設定しなおしてます。それを去年は二度目の七夕が8月7日だったので、その日まで飾っておいて、翌日からは8月の朝顔を飾りました。でも今年は8月26日なので、その日まで七夕を飾っておくと、朝顔の出番がちょっとなってしまう。すぐに9月のお月見飾りもやってくるので、それでは朝顔もかわいそう……。

なので、多分、今年(今年だけでないかも)は七夕と朝顔を同居させることになるでしょう。さらにさらに、七夕を月遅れでやる地方もあります。つまり、8月7日に。そう!何はともあれ、織姫と彦星の会える日を増やしてあげましょう。なので、今年から、七夕は年に3回やることにしました!

尚、日付けはその都度、前日にお知らせしますので、そうめんと五色のトッピングを用意してお待ちください。

七夕は年に三回やりましょう!

2008年7月6日「(日)そ、そんな、七夕が7月7日でないなんて……」


明日は何の日・7月7日
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2009年07月05日

(日)この名前がいいねと言うから、明日はボクの改名記念日!

あなたは名前を変えたことがありますか。

明日、7月6日は、松平元康が、徳川家康に改名した日。

1563年永禄6年のこと。幼名・竹千代は、人質として、今川義元の元にいた頃、元服をして、松平元信と名のり、その後、祖父清康の康を取って、元康と改名。

今川が織田との桶狭間の戦いで敗れたのをきっかけに自立し、旧今川領地を占領し、三河を平定。そして、これを機に、元康を家康に。苗字も清和源氏の徳川と改名した。

先祖は清和源氏の新田氏の支族、徳川氏。新田氏滅亡の後、本国、上野国徳川を離れて、流浪していたとき、三河松平氏の養子となり、それ以来松平を名のっていた。

この時代、名前を変えることは珍しいことではなく、今持っている名前より、氏素性の方がずっと重要だった。家系や由緒正しいことが武士の誇りであり、戦力となった。

日本人の名前の歴史
明治時代になるまで、公家や武士、一部の豪商を除き一般庶民に苗字がなかった(例外あり)

古代日本では各豪族が一族郎党を引き連れて、それぞれの地域で暮らしていた。豪族の首長を、氏の上と呼び、その元にいる人を氏人(うじひと)と呼んだ。その豪族の領地で暮らす氏人も、曽我や中臣、物部を名のっていた。また、朝廷への功績に応じて、臣(おみ)連(むらじ)直(あたい)首(おびと)などの「姓」が与えられていた。

その後、氏・姓は混同されるようになり、有力な豪族は、藤原、源、平、橘、清原、菅原などの苗字を使うようになった。

やがて中世になり、土地を幕府から与えられる名田(みょうでん)制度が始まり、一般庶民は名田に付けられた名前を使っていた。

明治維新を迎え、新政府はすべての人に苗字をつけることを許可した。人々は神主や僧侶に頼んで苗字をつけてもらったけど、多くの場合、地名や屋号、職業、信仰、あやかりなどに由来した苗字が付けられた。その際、日本では30万から40万ほどの苗字が誕生した。ちなみに、隣りの韓国では250、中国では500ほどの苗字しかなく、日本は比較にならないほどの苗字の種類がある。

日本での姓名学は、弘法大師(空海)が唐から多くの学問を習得して帰国した後、著した「聲字相義(けいじそうぎ)」が原点と言われている。その後、鎌倉時代以降「反切法(はんせつほう)」と言う姓名判断が流行った。この頃に徳川家康は改名し、運気を上げている。

現在の姓名判断は色々流派があるけど、徳川家康の名前は「大器晩成型」のいい名前とされている。私の名前もいいけど、まだ、その「実力」が発揮されてない……。

本名はともかく、ペンネームや芸名なら、運気のいい名前を付けられそうなものだけど、姓名学上、完璧と言う名前はない。多くの場合、苗字に対する名前であり、後はその人の進む道にもよる。

昔は出世魚のように、成長や出世に合わせて名前を変えることができたけど、現在はおいそれとは変えられない。でも、一生に一度くらい自分の意思で変えられたらいいのに、ね!


明日は何の日・7月6日
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2009年07月04日

(土)インドア派・あのスター一族の落日……

あなたは、アウトドア派、それとも、インドア派?

明日、7月5日は、小田原城が開城した日。

1590年天正18年のこと。城攻めの天才豊臣秀吉により、北条氏は五代でその幕を閉じた。

1585年天正13年、四国。1587年天正15年に九州を制圧した秀吉。残るは関東と奥州。この二つを制圧すれば、秀吉の天下は目前。それでも、秀吉は北条氏の当主、氏直の方から上洛し「秀吉の傘下に」と言ってくるのを待っていた。それがなかなか言って来ない。

そんな中、北条氏の領土の中にポツンとある真田昌幸の上野名胡桃城(うえのなぐるみじょう)を、北条方の猪俣邦憲(いのまたくにのり)が攻めたことをきっかけに、天正18年3月、秀吉は20万の大軍を率いて出陣した。

3月29日 駿河山中城(静岡県)
4月20日 上野松井田城(群馬県)
5月22日 武蔵岩附城(埼玉県)
6月14日 武蔵鉢形城(埼玉県)
6月24日 伊豆韮山城(静岡県)

こんなにも短期間に城を落とせたのには、秀吉の機を見る作戦や攻撃手腕もあったけど、北条氏側が「防御体制は本拠地の小田原城一点に絞っていた」ことにもよる。

小田原城は城郭の強固な城。これまでにも城に篭って勝利を収めている。上杉謙信とは1ヶ月以上戦った。武田信玄に包囲されても落ちなかった、小田原城。

今回の秀吉の城攻めに対しても、新たな修理を行い、15歳から60歳までの百姓・商人・職人を総動員して、軍備、兵糧、領内支城の城主を小田原城に集め、防衛に主力を注いでいた。

片や、秀吉は城攻めを得意としていた。また、城攻めの難しさも知っていた。そこで、知恵と財力にものを言わせる作戦を取った。鳥取の城攻めの前には近江・敦賀の商人に城下の米を「京は米不足なので、高値で買い取ります」と、城下の米をごっそり買い集めさせた。その後、兵糧攻めを開始、4ヵ月後には城を落とした。

備後・高松城の水攻めでは、多くの金で近隣の農民を刈りだした。貧しい農民達は多額の報酬に釣られて、堤防工事に参加した。

だが、今度は手ごわい小田原城。まず、九鬼水軍、毛利水軍を使って、海上の補給路を遮断。各地から、20万石の蔵入り米を駿河、清水港に集め、敵に回さないのと同時に自軍の兵糧を確保した。黄金10万両を使い、伊勢から駿河にかけての東海諸国の米を買い集めた。このとき、小田原城には1年分の米があった。だが、秀吉軍は2年分の米を持っていた。

急に人口が増えた秀吉軍の周囲には、商人や、遊女までやってきて、城下町のような賑わいだった。持久戦になるとすることがない。秀吉は正室のねねに頼み、茶々を呼び寄せた。だが、ねねは京極竜子も送り込んだ。この竜子、かなりの美人でさらに床上手。秀吉の足はつい、竜子の方に……。総大将がこんな有様だから、配下の兵たちも毎日がお祭りみたいなドンチャン騒ぎ。

一方の小田原城の中も昼間は、双六や将棋で時間を潰していた。1年分の米があるのだから、余裕をこいていた。

まさに、アウトドアとインドアの対決!

だが、インドア派は、外の賑わいが気になってきた。まるで、そこに都市が出現したような賑わいを見せている。篭城には絶対の自信を持っていたけど、今度ばかりはいつもと勝手が違う……。

いつまで経っても結論のでない長い話し合いのことを「小田原評定」と言う。その言葉の語源になったのが、このときの小田原城内での会議。

次第に不安になってきた小田原城内での、延々と結論の出ない会議。そして、一人、また一人と投降者が出始め、城内の士気も下がっていった。

そして、1590年天正18年7月5日、北条氏政、氏直親子が降伏。小田原城開城。氏政、氏輝(氏政、弟)は7月11日城下で自刃。当主、氏直、氏規(氏政、弟)は高野山に追放。

ここに、戦国スター第1号の北条早雲(以下参照)に始まった北条氏は5代で滅亡。

秀吉はその足で奥州に向かった……。

2009年6月24日「(水)スター誕生!負けたボクは罰ゲーム?」


明日は何の日・7月5日
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2009年07月03日

(金)美しく、押し勝つ方法……

明日、7月4日は、橘奈良麻呂(たちばなならまろ)の乱のあった日。

757年天平宝字元年、クーデターに失敗した、橘奈良麻呂以下、多くの人間が捕えられ、杖(むちうち)により死去、または流罪となった。でも「続日本書紀」によれば、首謀者であるはずの奈良麻呂の名前はそこにはない。消されている。
なぜ……。

藤原仲麻呂は、藤原4兄弟の1人、武智麻呂の次男。幼少から学才に秀でていて、天然痘で4兄弟が相次いで亡くなると、皇族、橘諸兄(たちばなのもろえ)が台頭し、仲麻呂と激しく対立した。仲麻呂はオバである光明皇后に取り入り、次第に政権を掌握していく。

749年、光明皇后の娘である、孝謙天皇が即位。実権は光明皇后にあり、仲麻呂は光明皇后のために官職・皇后職(こうごうぐしき)を設け、そこの長官に就任した。当然、娘の孝謙天皇もママと同じく仲麻呂ひいき。面白くないのが、諸兄。最高位の左大臣である自分を差し置いて、すべては仲麻呂の思いのままにことは運んでいく。

755年、諸兄は酒宴の席で、朝廷を誹謗したと密告があり、失脚。諸兄は2年後に失意のうちに病死する。

女性の天皇とは、跡継ぎがいない、まだ、小さいうちの取りあえずのつなぎでしかないし、結婚も認められてない。そこで聖武上皇は亡くなる前に、立太子に道祖王(ふなどのおおきみ)を推した。でも、聖武上皇が亡くなると孝謙天皇によって道祖王は廃せられ、仲麻呂が押す大炊王(おおいのおおきみ)が立太子となった。そうした仲麻呂の専横ぶりと父の横死に憤慨したのは、諸兄の息子の奈良麻呂。

757年、奈良麻呂は同志を集めて、叛乱を計画。仲麻呂を殺し、孝謙天皇を退位させ、立太子も廃し、塩焼、道祖、黄文(きふみ)安宿(あすかべ)の4王の中から天皇を擁立することとした。同志は小野東人(おののあずまびと)佐伯全成(さえきのまたなり)大伴古磨呂(おおとものこまろ)多治比犢養(たじひのうしかい)加茂角足(かものつのたり)など、20人余り。

だが、実行前にこの計画は漏れ始めた。主だった者が捕えられたけど、光明皇后は「お前たちは皆私の親族。謀反なんてうわさは信じられない。何かの間違いでしょ。信じています」と、その日は何事もなく帰された。面白くないのが、仲麻呂。

翌日、再び彼らを捕え、ほとんどの者は杖刑(死ぬまで杖で叩く)で命を落とし、流罪になった者も数知れず。

なのに、事件の記録には橘奈良麻呂の名前がない。このことは後に、奈良麻呂の孫娘が嵯峨天皇に入内したことから、彼女が消させたのではないかと憶測を呼んでいるけど、仲麻呂が、本当の意味で奈良麻呂を抹殺したのではないだろうか。奈良麻呂の名を歴史に残させないために、奈良麻呂の存在自体を消したかったのではないだろうか……。

クーデターを未然を防いだとして、仲麻呂は「暴乱に押し勝つ強さ」と「美しさに恵まれるように」との願いを込めた「恵美押勝(えみのおしかつ)」と言う名前を、孝謙天皇からプレゼントされ、名実ともに朝廷のトップとなった。めでたし、めでたしのはずだったのに、調子にのりすぎて、後に「恵美押勝の乱」を引き起こしている。

なんで、アンタは、抹殺したヤツと同じことをやったのさ……。


明日は何の日・7月4日
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2009年07月02日

(木)「紛失!」でも、出世できますた!

明日、7月3日は、第一回、遣隋使を派遣した日。

607年推古15年に、小野妹子は遣隋使として、煬帝(ようだい)への国書を携え中国へ渡った。その国書の内容とは例の「日出(い)ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや。云々」と言うもの。これ、わかりやすく説明すると「私は日が昇る国の偉い人。あなたは日が没する国の偉い人。ところで、最近調子どう」今で言うタメ口。

実は、この7年前にすでに、誰かから派遣され日本の使節団が訪問していることが中国の史書に記録されているのに、日本では小野妹子が第一回派遣となっているし、聖徳太子そのものも、その実在さえ、現在は疑われているけど、そこのところは置いといて取りあえず、教科書通りに話を進めます。

この「日出ずる国の……」の手紙を読んだ煬帝はいたくご立腹!なんせ、当時の中国は「世界一の強国」と自負していた。周辺諸国は下位の臣下であり、貢物を献上しに来るくらいにしか思ってなかった。

そんな下位の国から、対等な物言いをされれば怒るに決まっている。まして、日出ずる国と、日没する国では、日出ずる国の方がカッコイイ!

それでも煬帝は、裴世清(はいせいはい)を答礼の大使として、小野妹子の帰国とともに、日本へ行かせている。そのときに、手紙の返事も小野妹子に託している。なのに、小野妹子はその手紙・国書を途中で紛失してしまった……。小野妹子の言い分によれば、手紙の紛失は帰国途中の百済(くだら)で百済人に襲われたときに盗まれたと言う。

そんな事件があったのなら、中国人も知っているはず、でも、彼らはそんなこと一切言ってない。逆にもし紛失したことを、裴世清が知って、煬帝の知るところとなれば「なんと、軽率な!」とさらに怒りが爆発してしまう。

命に代えても守らなければならない国書を紛失したとなれば、初代・遣隋使の名が廃る。小野妹子は大失態をやらかした。さぞや、重い処分……とはならなかった。なんと、お咎めなし。それどころか、翌年、裴世清が帰国と同時にまたも派遣された。第二回遣隋使に小野妹子はまたまた大使となった。その帰国後には「大徳」と言う官位、十二階の最高位を賜っている。

現在では、手紙は紛失したのではなく、わざと隠蔽(いんぺい)したのではと見られている。

これは聖徳太子のはったりだった。煬帝の一番の関心事は、朝鮮半島の情勢であり、朝鮮の三つの国がいつ敵に回るかもしれない状況では、日本を絶対味方に付けておきたい。なので、ちょっとくらい大きなことを言っても、兵を出したり、国交を断絶させたりしないだろうとの計算から、聖徳太子ははったりをかました。

隋と対等に交易をするためのはったりであるとともに、国内の豪族に対してのはったりでもあった。当時の聖徳太子のライバルは年が倍以上も違う、曽我馬子。その他の豪族や臣下たちも年上のうるさ方ばかり。若い聖徳太子は、そんな者たちにちょっとは自分のすごいところを見せておきたかった。

そこで、対等の物言いをした手紙を送る。隋の皇帝への国書だから、その内容は臣下も皆知っている。

その国書に煬帝は怒る。返事は怒り爆発の「アホ・バカ」羅列?文書。このまま返事の内容を皆に発表するわけには行かない。そこで、無くしたことにする。

答礼大使・裴世清の身分は外交官。相手の国の貴族・大臣達とは常に友好ムード。社交辞令で接するはず。それを見れば、日本ではなんとなくあの手紙が受け入れられたように思ってしまう。

国書を紛失すると言う大失態をやらかした、小野妹子が再び遣隋使となり、官位も上がる。それは聖徳太子ののメンツを守っためだった。イヤ、無くしたことにして、聖徳大使にだけは手紙を見せた。

その煬帝の返事が現存してないのは、見るに耐えないことが書かれてあったのを、聖徳太子が破り捨てた……。


明日は何の日・7月3日
かわいいソフトクリームの日
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2009年07月01日

(水)イケメンたちの、悲しい過去……

メン食いなもので……。

明日、7月2日は、うどんの日。

麺好きな私は今までにも麺のことは、色々書いてきた。その中でもうどんが大好きで、讃岐うどんが提唱している「年明けうどん(元旦から15日までの間にうどんを食べる)」さすがに元旦うどんはやらなかったけど、元日うどんは食べた。また、毎月11日は、麺の日なので、この日も主にうどんを食べている。

うどんの本場、讃岐の人に比べれば大したことないかもしれないけど、麺はわりと食べている方だと思う。でも、7月2日がうどんの日と言うのには、ちょっと違和感を持っていた。私にとってのうどんは何より熱い汁うどんが、うどんとなっている。夏にはつけ麺も食べるけど、うどんは冬に食べるのが一番。寒いときの熱いうどんは堪えられない!なのに、夏に「うどんの日」を制定するとは……。

うどんは奈良時代、空海(弘法大師)が唐から、うどんの製法を持ち帰り、貧しい地元の民を「飢え」から救った伝説が讃岐にあり、讃岐では二毛作で小麦を栽培した。毎年7月のこの頃、田植えが終わると手伝ってくれた人たちに、うどんを振舞ったことから、1980年昭和55年、香川県生麺事業協同組合が制定した。

昔、年貢を納めると百姓たちに食べるものが残されてなかった。稗(ひえ)や粟(あわ)の雑穀雑炊でやっと飢えをしのぐと言う実情だった。そこに、うどんの製法が伝わり、最初は小麦粉をねって、湯(つゆ)の中に入れて食べると言うものだった。思えば、うどんやそばのおいしい地方は、昔はものすごく貧しいところだった。

今でこそ、麺は喉越しだの、汁の味だのと言っているけど、本当は飢えをしのぐための食べ物であったし、白くて長いところから、おめでたい席でも食べられるようになったけど、私の好きな汁うどんは慶長年間にしょう油が普及するようになってからのものだった。そうだった、醤油のない時代もあったのね……。

うどんに関係したもの
シュレッダー
明光商会が、うどんの製麺機からヒントを得て、発明。

☆うどんすき
元は某メーカーのの登録商標だったけど、裁判になって、普通名詞化した。1997年最高裁判決。

☆堀内元投手
堀内元投手は、他の選手がマネ出来ない特殊なカーブを投げることが出来た。若い頃、うどん製麺機で人差し指?を少し切り落とす事故にあってしまい、指が少し短くなったために、そのようなことが出来たらしい。

☆昭和初期の大坂の「ハイカラうどん」とは、天カス入りのうどんで「モダンうどん」には、揚げエビ、青豆、刻みネギが入っていた。

☆落語の「時そば」のオリジナルは、関西落語「時うどん」とされているけど、大もとのところが違っている……。落語では「時そば」の方が有名。

いっそ、毎月1日を「うどんの日」とすればいいのに。毎月末日がそばの日。そして、毎月初めがうどんの日。そばは切れやすく、うどんは長くて切れにくい。どちらもイケてるメンです。

明日、私はうどんを食べる。今年はノブコさんに乾麺をたくさんもらった。そして、7月7日の、七夕にはそうめんを食べる。

どうして、私はこんなにも、メン食いなんでしょう。

イケメンも好きです!


明日は何の日・7月2日
かわいいユネスコ加盟記念日
かわいいたわしの日
かわいい救世軍創立記念日
かわいい蛸の日
かわいい布ナプキンの日
かわいいうどんの日
かわいい柿渋の日

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7月7日は七夕で、そうめんを食べる。
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