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2009年12月19日
posted by 松本萌花 at 04:00|
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歴史ミステリー
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2009年12月16日
恨み、恨まれ……。
明日、12月17日は、日本最後の仇討ちがあった日。1880年明治13年のこと。
日本三大仇討ちと言えば、曽我兄弟の仇討ち。荒木又衛門の助太刀で有名な仇討ち。そして、つい、先日の赤穂浪士の討ち入り。
江戸時代までは美談として称えられていたけど、明治になり西洋の道徳の影響で、仇討ちは野蛮な風習と考えられるようになり、1873年明治6年に復讐(仇討ち)禁止令が発令された。その禁止令により、しばらくは鳴りを潜めていた仇討ちが起きてしまった……。
1880年明治13年12月17日、旧秋月藩士の臼井六郎が、東京上等裁判所判事、一瀬直久を京橋の黒田長徳邸内で刺殺し、その足で警察に出頭。
日本中が「佐幕派」と「勤皇派」に真っ二つに分かれていた幕末の頃、当時藩命で京都にいた秋月藩の臼井亘理(わたり)や重臣たちは、どちらかと言えば佐幕派だった。それが、大政奉還、王政復古の大号令で事態は急変。幕府の凋落を目の当たりにし、これからは勤皇かなと考えるようになっていた。そのせいもあったのかどうか、亘理はしばらく京都に留め置かれた。それがやっと許され、郷里に帰れることとなった。
明治元年5月24日、家族親族とともに帰郷祝いの宴が開かれたその夜、酔いつぶれて寝ていた亘理を、秋月藩の勤皇派、干城隊の若い隊士たちが、亘理と側に寝ていた妻、幼い妹を斬殺。一人、別の部屋で寝ていた、11歳の六郎は助かった。即日、幕府に訴えるものの、藩士たちは亘理こそ国賊と言い張り、その主張が認められ、無罪放免。逆に臼井家は国賊として減禄されてしまう。
納得がいかない六郎……。やがて、学問の道に進むと言うことで東京へ。山岡鉄舟の道場で腕を磨きつつ、仇討ちの機会を狙っていた。そして、父母や妹を直接手にかけたのが、干城隊隊士の一瀬直久だとわかった。一瀬は裁判所の判事にまで出世していた。その一瀬は月に一度、東京三十間堀にある、旧秋月藩主の黒田長沖が開く碁会に時々参加していた。
その当日、六郎が物陰から黒田邸の様子を伺っていると、一瀬が入っていくのが見えたので後を追いかけ、父の愛刀の短刀で刺殺。騒ぎを聞きつけ、駆け寄る人の中には六郎の顔を見知っている者もおり「六郎、どうした!」と叫ぶ。六郎は「御邸内で騒ぎを起こしたることを深くお詫び申し上げます」と言い、待たしていた人力車で、警察に出頭。その時、22歳。
当時としては犯罪であるとは言え、六郎の仇討ちは賞賛された。だが、東京裁判所は六郎に終身禁固刑を言い渡し、服役。1890年明治23年6月、大赦により、仮出獄。その時には自由民権運動の大井健太郎らが出迎え、盛大な祝勝会が開かれた。六郎は後に大陸に渡るものの、帰国。妻を娶り、60歳まで生きた。
仇討ちは、美談か、単なる人殺しか……。
赤穂浪士にしても、六郎にしても、最初の上の人の判断・最初の判決で、以下に、被害者遺族に恨みを残させない公正な判決をするかでしかない。
本当は、恨みを持って生きることこそ、悲しい……。
5月27日(水)雨と、仇討ちの先にあったもの!
11月6日(金)本当は36人のボーイズラブ?
12月13日(日)バカ殿、参上!
明日は何の日・12月17日
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2009年12月15日
佳人薄命……。
明日、12月16日は、藤原定子の忌日。1001年長保2年のこと。
藤原定子(ふじわらのていし、さだこ。977年貞元2年〜1001年長保2年12月16日)
父は、関白藤原道隆。母は、高階貴子(たかしなのきし)990年正暦元年1月25日、14歳で3歳下の第66代、一条天皇に入内。
父の道隆は陽気な人で、よく冗談を言っては人を笑わせていた。母の貴子は漢文学者で才女の誉れ高い女性。その母が一発で落ちたほど、道隆はイケメンだった。そんな両親のいいとこ取りをしたような定子は、一条帝とも仲むつまじく、清少納言が出仕した頃の、定子の文学サロンは、隆盛を極めていた。その頃の様子は「枕草子」生き生きと綴られている。
だが、この頃を頂点に定子に不幸が忍び寄る。まず、父が亡くなり、弟の伊周と隆家が部下に命じて、花山(かざん)法皇を脅し打ちする事件を起こす。伊周は藤原為光の娘で、美人の三の君のもとに通っていた。花山法皇は同居の四の君のもとに通っていた。それを隆家は三の君の元に通っているものと思い込み、脅し討ちをした。幸い、花山法皇にケガはなく、法皇も出家の身でありながら愛人の許に通うと言う、不謹慎な行為を内密にしようと思っていたけど、この事件はその日のうちに朝廷内に知れわたってしまった。
当時、出産のため、里帰りしていた定子の目の前で、検非違使が侵入し、弟が捕えられるのを見た定子はショックで自ら髪を切り出家する。その後、母も亡くなり、そして、脩子(しゅうし)内親王を産む。
一条帝は定子の落飾を許さず、内密に通ってきていた。2年後、父が待ち望んでいた皇子、敦康親王を産む。だが、第2内親王、び子(びは女偏に美しい)を産んだ翌日、定子は崩御。享年、24歳。定子の希望で鳥野辺に土葬されることになった。
今回の出産は今までの出産とは違う思いがあり、死を悟っていたようで、死後、三首の歌が帳の紐に結び付けてあるのが発見されたときは、宮廷内は新たな涙にくれた。
よもすがら 契りしことを 忘れずは
恋ひん涙の いろぞゆかしき
知る人も なき別れ路に 今はとて
心細くも 急ぎたつかな
煙とも 雲とも知らぬ 身なりとも
草葉の露を それとながめよ
また、天皇ゆえに定子の葬列に加われない、一条帝の歌
野辺までは 心ばかりは 通えども
わが行幸とも 知らずやあるらん
「鳥野辺に私の心は付いて行っているけど、あなたはこの雪が私だとわかってくれるでしょうか」
雪の降る日でした……。
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2009年12月13日
バカに、やられた……。
明日、12月14日は、吉良上野介義央の忌日。1702年元禄15年のこと。
ご存知、忠臣蔵の悪役。でも、本当に悪人だったのだろうか……。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか、1641年安永18年9月2日〜1702年元禄15年12月14日)
1701年元禄14年3月14日午前10時頃、城内大廊下(松の廊下)で、上野介は浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)から、背中と額を切りつけられる。殿中で刀を振り回したとして、内匠頭は即日切腹。ここまでは事実。
だけど、わからないのは内匠頭が上野介に切りつけた理由……。「赤穂浪士」の芝居では、吉良のいじめに耐えかねた浅野がついに爆発したとなっていることが、世の父親たちの共感を呼び、さらに、敵討ちの場面でスカッとさせてくれるから。
だが、その時、側にいて一部始終を目撃していた人物がいた。旗本、梶川与惣兵衛(よそべえ)内匠頭を「殿中でござる」と、後から抱きとめた人。その梶川が書いた「梶川日記」によると、当日、大廊下で吉良と話をしていたのは梶川本人。そこに何者かがいきなり「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで、吉良を背後から切りつけた。誰かと見ると、浅野だった。吉良も「これは…」と振り向いたところ、眉間にもう一太刀。吉良がうつぶせになったところを、さらに浅野が切りつけようとするのを梶川が背後から抑えた。
芝居では、吉良と浅野が口論していたとなっているけど、実際に吉良と会話をしていたのは、梶川。また、当日の装束は長袴で動きにくい。刀は「小サ刀」と呼ばれる短刀。この短刀では突かなくては相手を殺傷できない。動きにくい格好で切りつけて、浅野は吉良を本当に殺害しようとしたのだろうか。この間の遺恨と言うけど、殺傷に及ぶだけの遺恨があったのだろうか。
吉良の傷は浅かったけど、当時としては高齢の61歳であるとともに、御殿医が止血できなかったこともあり、軽いショック症状を起こしていた。しかし、外科医の栗崎道有が気付け薬を飲ませてから止血、傷の縫合を行い、湯漬けを食べた後、正気を取り戻した。その後、吉良は「意趣を含まれる覚えはない、大方、浅野殿の乱心であろう」と語っている。
だが、幕府にも手落ちがある。芝居ではケンカ両成敗であるはずと言うのが、赤穂浪士の仇討ちへの布石となっているけど、実際はケンカをしていたわけではなく、いきなりの狼藉なのだから、浅野が罰せられることは当然としても、遺恨の理由を聞きもせずに、即座に切腹を申し渡した。その理由を聞いてからでも遅くはなかったと思うのに、何をそんなに急いだのだろう……。
よって「この間の遺恨、覚えたるか!」の言葉が一人歩きすることになる。何か事件が起きると、人はその背景や首謀者の心理状態を分析したくなるもの(本当のところはわからないくせに)そこで、てっとり早く行き着いた結論が、切りつけられる方も悪い、きっと、年寄りの吉良が若い浅野をいじめていたに違いない、と。
本能寺の変は失火であり、火事を知って駆けつけた明智光秀が、意地の悪い京都の人たちから「明智の謀反だ!」と囃し立てられ、どうしようもなくなり、自滅の道をたどることになった。でも、江戸っ子は「弱いもの」の味方をする。なので、みんな、浅野の味方。そんな世論に屈したのか、幕府は吉良を都会の呉服橋から、当時は辺鄙な田舎の本所に屋敷を移させた。その頃には浅野の残党が仇討ちをするのではとのうわさで持ちきりだった。仇討ちがしやすいように吉良を田舎に追いやった?
1702年元禄15年12月14日の深夜。赤穂浪士たちは仇討ちを決行!だが、このとき、赤穂浪士の後をつける者達がいた。それは見物人。300人ほど。吉良邸討ち入りは秘密裏に行われていたのでなく、多くの人が知っており、その中には新井白石もいた。また、その時の装束は芝居のように揃いのユニホームではなく、みんな、バラバラ。山鹿流の陣太鼓なんてない。普通の小さな太鼓とドラが一つ。笛は多くの浪士が持っていた。
いよいよ討ち入り。辺鄙な場所に移ったとは言え、高家、吉良の屋敷。そこには浪士たちが食べたこともないような、菓子などの食べ物があった。思わずそれを口に入れてしまう浪士。つまみ食いをしながら、吉良を探しても大丈夫なほど屋敷は広かった。
そして、炭小屋に隠れていた吉良が雪の上に引きずり出されるシーン。でも、当日、それほど雪は降っておらず、引きずり出されたとき、吉良はすでに死んでいた。隊士の吉田忠左衛門、間十次郎が台所横の炭小屋から話し声したので、中に入ろうとすると、2人の吉良の家臣が切りかかってきた。2人を切り伏せた後、何やら奥で動くものがあり、十次郎が槍で突くと、脇差しで抵抗してきたため、武林唯七が切り捨てた。それが吉良だった。とにかく「本懐」は遂げられた。
それにしても、見物人が出るほどに知れ渡っていた、赤穂浪士の押し入りに対して、吉良家はもっと警備を強化するとかの対策を、取らなかったのだろうか……。
だが、当てが外れてしまったのは、浪士たち。彼らのほとんどは主君の仇討ちが本懐ではなく、何があったか知らないが、殿中で刀を振り回すなどど言う行為に及んだ、バカ殿のお陰で職を失って苦しい毎日。この上はバカ殿を利用して再就職をしたい。そのための「仇討ち」だった。
大石蔵之助は取り立てて暮らしに困っていたわけではないけど、元配下のグチを聞いているうちに、いつの間にか仇討ちの代表者に祭り上げられてしまった。大石が遊びまわっていたのは、世間の目をくらますためではなく、元々が遊び好き(そのために何度か謹慎を食らっている)であり、抜けられなくなった「組織」に対するやけくその気持ちから。金は家老時代にたっぷり貯め込んでいた。
そして、切腹当日の浪士はみんな、へべれけに酔って、自力では立てないほどだった。まともに切腹したのは、ほんの数人。この当時の切腹は、小刀で腹を突かなくても、扇子での代用も許されていた。そんなことより、きっと再就職先は引く手数多だろうと浮かれていた浪士たちは、その期待も空しく、切腹の沙汰を聞いて地獄へ突き落とされてしまった。
こんなはずではなかった……。
恐くて恐くて、切腹なんて出来ない。その恐怖心を紛らわせるために、酒を大量に飲んだ。これが浪士たちの真実。
一方、吉良の実孫で養子の左兵衛義周(さひょうえよしちか)は討ち入り当日は長刀を持って応戦するも負傷。浪士たちに切腹の沙汰が下るのと同時に「当夜の振舞いよろしからず(父を助けることも出来ず、討ち死にもしなかった)」として、領地は没収、信州諏訪高島の諏訪家にお預かりとなった。厳しい幽閉生活の3年後の1706年宝永3年1月20日、21歳で没した。ここに、吉良家は滅亡。
吉良義央は、名君として今も慕われている。だが、仕事の出来ない、短慮な部下を持ったばかりに、悪人にされ、家は滅亡。
そして、みんな、不幸になった……。
6月21日(日)本能寺の変・明智光秀はえん罪です!
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2009年12月12日
♪海は広いな、大きいな〜
明日、12月13日は、武田信玄が今川館を襲撃した日。1568年永禄11年のこと。
前日、つまり今日。事前の内通工作の成果により戦わずして、要所の薩た(さった、たは土へんに垂)峠を制し、駿河(静岡)に進攻した、甲斐(山梨)の武田信玄。
自ら出陣して、さった峠近くの清見寺に布陣し、信玄を迎え撃つつもりだった今川氏真(うじざね)も、度重なる味方の寝返りに、あわてて本拠地の今川館に逃げ帰る。
今川館は、後に駿府城になる場所で、平坦な場所に建てられたとても城と呼べるような建物ではなく、守りには向かない。氏真は、今川館では防御に不利と考え、相模の北条氏政に援軍を要請するとともに、今川館の背後にある賤機山(しずはたやま)城に籠城し、北条の援軍を待つ作戦に出た。
だけど、この程度の作戦、信玄にとっくに読まれていた。信玄は駿府に入ると、武家屋敷や民家に火を放ち、混乱のドサクサのうちに、氏政より先に賤機山城に到着し、城を占領。
仕方なく今川館で籠城する氏真。だが、到底武田の軍勢に太刀打ちできるはずもなく、その日のうちにあえなく撃沈。氏真は遠江の掛川城に逃走。
信玄は今川館の宝物を奪えと下知していた。だが、馬場美濃守信房は一騎で館に火をかけすべてを焼き払った。理由は「宝物を奪う貪欲な戦さと侮られ、主君の評価が下がる」
この戦いで、南北朝以来守りつづけて来た駿河の地を失うことになった今川氏。逆に、山に囲まれた山梨で生まれ育った信玄が、喉から手が出るほど欲しかった海を手に入れ、その後はあの高名な甲州水軍の養成に力を注ぐ。
掛川城に逃げた氏真を、この先追い詰めるのは信玄ではなく「今川を手に入れたら、半分個しよう」と約束を交わし、信玄の別働隊として侵攻していた、徳川家康。その話は、また、その前日に書きます。
父の義元と同じように風雅を好み、蹴鞠の名手だった氏真。でも、蹴鞠で戦さが出来きるはずもなく、戦いに不向きな武将は、その後、逃げまくりの人生を送ることに……。
明日は何の日・12月13日
正月事始め、煤払いの日、松迎え
ビタミンの日
大掃除の日
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2009年12月10日
「京の茶漬け」とは、もう帰れと言う意味。
明日、12月11日は、江戸時代の臨済宗の名僧、沢庵宗彭の忌日。1646年正保2年のこと。
沢庵宗彭(たくわんそうほう、1573年天正元年12月1日〜1646年正保2年12月11日)
出石(兵庫)城主、山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣、秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)の次男。豊臣秀吉に滅ぼされ山名家は滅亡、父は浪人となった。10歳のとき、出石の昌念寺で出家。14歳で同じ出石の宗鏡寺(すきょうじ)の希先西堂に師事。希先が没した後、当時の出石藩主、前野長康は大徳寺から、春屋宗園の弟子、薫甫宗忠(とうほそうちゅう)を住職に招く。
1594年文禄3年、宗忠が大徳寺の住持となったため、沢庵も大徳寺に入ることになった。宗忠の死後は、堺の南宗寺で一凍紹滴(いっとうしょうてき)に師事。
1604年慶長9年、沢庵の称号を得る。
1607年慶長12年、大徳寺主座となるも、南宗寺の住持も兼ねる。
1609年慶長14年3月7日、大徳寺第154世住持に出世する。だが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り堺へ戻る。
1620年元和6年、郷里出石に戻り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結日、投淵軒と名づける。
江戸幕府が成立すると、寺社への締め付けが厳しくなっていた。1627年寛永4年、後水尾天皇が幕府に断りなく、紫衣の着用を許したことを法度違反として、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた「紫衣事件」が起きる。沢庵も急ぎ京都に上り、前住職の宗珀(そうはく)妙心寺の単伝、東源らと反対運動を行う。
1629年寛永6年、沢庵は出羽国上山へ、宗珀は陸奥国棚倉へ、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ流罪となる。
上山藩主、土岐頼行は、名僧沢庵に心酔し、厚遇。
1632年寛永9年、2代将軍、徳川秀忠の死去に伴う大赦令で、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に関係した者は許され、沢庵は江戸の神田の広徳寺に入るものの、京都に帰ることは許されなかった。
一旦は郷里に帰るものの、3代将軍、家光に懇願され、江戸に留まることとなった。1639年寛永16年、家光が萬松山東海寺を創設。沢庵が住職となる。
1646年正保2年12月11日、沢庵死去。遺言「自分の葬儀はするな。香典は一切もらうな。死骸は日が暮れてから担ぎ出し、山に埋めて二度と来るな。墓は作るな。朝廷から禅師を受けるな。位牌は作るな。法事をするな。年譜を誌するな」
沢庵と言えば、沢庵漬。家光が最近何を食べても、それほどうまいと思わなくなったことを嘆いたところ、沢庵の庵に、途中で帰らないことを条件に招待された。家光は沢庵が何を食べさせてくれるのだろうと期待していた。でも、午前10時ごろに着いたのに、午後2時頃になっても食事がでてこない。空腹でたまらない家光に、やっと茶漬けと漬物が出された。将軍であることも忘れたかのように、がっつく家光。
一息ついた家光は漬物の味に感心する。尋ねると「たくわえ漬」だと言うので「たくわえ漬と言うより、沢庵漬じゃ」と言ったとされるているけど、これは風聞の域を出ないし、たくわえ漬のような漬物は以前からあり、空腹が最高のごちそうと言うのも、似たような話はいくつもある。
また、沢庵和尚と宮本武蔵に接点はない。これは作家、吉川英治のまったくの創作。
沢庵和尚は清貧の人。それだけ……。
それが、すごいのです!
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