2009年12月19日

(土)キツネの孤軍奮闘!

カッコいい……。

明日、12月20日は、佐藤忠信が吉野山で奮戦した日(尚、日付けは「義経記」によるもの)

佐藤継信・忠信兄弟は、藤原秀衡が源義経の家来とした。 義経が鞍馬山を飛び出し、奥州、平泉の秀衡のもとに身を寄せていたとき、兄、頼朝が旗揚げしたのを知り、兄の元に馳せ参じるときに秀衡から命を受け、その時からずっと行動をともにしてきた。

兄の三郎継信は平家と八島の合戦で、義経の身代わりに討ち死にしている。弟の四郎忠信は頼朝に追われた、義経とともに吉野山に潜んでいた。先月、静御前と別れた義経は吉野山蔵王堂の奥の院の谷に潜伏中を囲まれてしまった。

ここで主君が捕えられては再起の道も叶わない。忠信は「ここは私におまかせください」自分が追っ手を引きつけている間に義経を逃がそうとした。「ここで、不覚を取っては、殿の家来として私を選んでくださった、秀衡様に申し訳が立ちません」と言って、譲らなかった。義経達は涙して忠信と別れる……。

忠信は6人の家来とその場に残り、村の向こうから聞こえてくる敵の集団を待ち受けることにした。6人に矢を放たせ、自分は横から矢を放った。

「それ、者ども怯むな進め!伊勢三郎、熊野太郎、片岡八郎、弁慶、かかれ!」と、いない者の名をいるかのように叫び続けた。その声に、一旦はビビってその場から散った集団も中々義経側が攻めてこないので、徐々に前に出てきた。忠信達のいる場所目掛けて矢の雨を降らせる。

その矢雨が少し治まったので「それ、今だ。敵に矢は無くなった。乱入して斬りまくれ!」と、声を発するも、配下の6人は敵の矢で全員亡くなっていた……。

1人になった忠信は「足手まといが無くなって、ホッとした」と空しく強がってみたものの、突如、出現した大男に驚く。忠信に中々手が出せないでいる味方の兵士達に「お前たち、相手が九郎判官なので、恐れをなしているのか!」今度は忠信に向い「鈴木党の中に、この人ありと言われた、横川禅師覚範(かくはん)とはオレのこと。矢を1本お見舞いする」

矢は忠信の太刀をかすめ、後ろの木に刺さった。これではまともな矢の勝負では勝てないと思った忠信は、相手の弓を狙った。覚範の弓の上部が吹っ飛んだ。

「さあ、一騎打ちと参ろう」と斬り合いが始まる。忠信の方がやや優勢なものの、何しろ、この3日まともな食事をしてないのだから、ここと言うときに力が入らない。だが、一進一退の攻防の隙を見つけ、身軽な忠信は崖に突き出た大岩の上に飛び移る。

このまま、崖に飛び込んでしまおうかと思ったとき、岩の向こうから覚範の声「逃げるな、卑怯だぞ!」と大岩にジャンプした。だが、バランスを崩して転がるように岩に着地。体勢を立て直している隙に、すかさず真正面から斬りかかる忠信。覚範を討ち取る。

下の方からは大岩の上の様子がわからず、ざわついている兵士たちに「うわさに名高い覚範の首を、義経が討ち取ったり!」と、覚範の首を投げつけた。あの鬼のような覚範が討ち取られた……。兵士達がビビリまくっている隙に、忠信は姿をくらました。義経と別れるときに、義経の名を名のることの許しは得ていた。

このお話は歌舞伎「義経千本桜」の中で、忠信はキツネの化身となっている。

何とか山を下ると、南大門の側に小さい坊があった。忠信は入ってみた。そこには食べかけの食事があるだけで住人の姿はない。食事の最中に大勢の兵士達が義経を追って山に入ったので、巻き込まれては大変とそのままで逃げ出したのだろう。何しろ、空腹。残っていたものをいただき、忠信は久しぶりに満腹感を味わう。疲れもあり、うつらうつらしていると、周りが騒がしい。どうやら、取り囲まれたらしい。

「九郎判官、そこから出て来い!」
「隠れているのは卑怯だ!」
「火を付けろ。出てきたところを殺れ!」
忠信は自らが、坊に火をかけた。その火を背に敵の前に出る。
「俺は九郎判官ではない。佐藤四郎兵衛忠信だ。今腹を切るからよく見ておけ」
と言って、腹を切るマネをして、後ろの火の中に隠れた。それを見ていた兵士達は皆、忠信は「死んだ」と思った。だが、忠信は火の中を走りぬけ、後ろの山に逃げ延びた。

もう、義経達は遠くまで逃げたことだろう。こうなった以上、自分は生きれるだけ生きて、自分なりの戦いを続けようと決意した。

そして、忠信は翌々日の23日に京都に潜入。京都には恋人がいた。義経との急な旅立ちで、別れも言えなかった。やはり、逢いたい……。

その悲しいお話は、また、その前日に。


明日は何の日・12月20日
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2009年12月18日

(金)「豊臣」の姓に秘められた、本当の意味 ……

どーしても、ホシイのぉ!

明日、12月19日は、太政大臣になった羽柴秀吉が朝廷から「豊臣」の姓を賜った日。1586年天正16年のこと。

「朝廷から姓を賜る」と言うことは「本姓・姓(かばね)」を頂くことで、決して勝手に名のってはいけない。

その「朝廷から姓を賜る」には、一夫多妻だったため、増えすぎた天皇の皇子・皇女を臣籍に降下させた時の姓(源、平など)
天皇の臣下であると言う意味の「臣(おみ)姓」(藤原、橘、伴、物部など)があり、姓と言うのは〇〇一族と言う意味の氏素性を表すもの。

朝廷から賜った姓と名前の間には「の」が入り、秀吉も正式には「とよとみ の ひでよし」と「の」が入る。それに引き換え、織田信長徳川家康などの織田、徳川は苗字。苗字とは勝手に名のってよく、出身地の支配している土地の名を付けたりしていた。だが、あの信長もこじ付けかもしれない「平」の姓を名のっている。

秀吉の幼名は日吉丸。1536年天文5年1月1日生まれ。日吉山王社の使いである猿にちなんで、その名が付けられニックネームの「サル」と呼ばれるようになったとか言われているけど、これは後々の創作で、実際は1537年天文6年2月9日生まれ。そうなると申年ではないし、日吉丸と言う名前も根拠がない。まして、当時「丸」とは武士の子につけるもので農民の子にはつけないものとされている。こうなってくると幼名が正しいかどうかも怪しい。

信長に仕えるようになってからは「木下藤吉郎」と名のっている。木下は父、弥九郎の苗字とされているけど、1565年永禄8年頃に突如登場する苗字で、こちらも、ちょっと……。

1574年天正2年、柴田勝家と丹羽長秀の名前にあやかった「羽柴」を名のる。

だが、1582年天正10年、山崎の合戦で、明智光秀を倒し天下に手が届く頃になると、やはり、おかしくなってくる。光秀を討った後、信長の継承者であると主張し、信長の姓である「平」を名のって、自身を「平秀吉」と名のるものの、逆に周りの武将たちから白い目で見られる結果に……。信長や家康のように、どこかの先祖にくっつける系図すらないことを、改めて周囲に知らしめることになってしまった。

そこで、落ちぶれかけた室町将軍、足利義昭に頼み込んで、猶子(ゆうし、契約上の養子)になって「源」の姓を取得しようとすり寄るも、プライドの高い貧乏将軍に断られ、すぐさま撃沈……。

1585年天正13年、関白にまで昇り詰めた秀吉は、もう、なりふり構っていられなくなった。本来、関白職と言うのは、藤原氏北家の血筋が継ぐことになっている。それを、半強制的にもぎ取ってしまった秀吉は、藤原氏の血を引く近衛家の養子となり「藤原秀吉」を名のり、周囲を納得させようとした。

そして、話は作られていく。母は昔天皇の寵愛を受けていて、宮中から下がった後に男の子を産んだ。天皇の御落胤、それが自分。また、母は太陽が懐中に入る夢を見て、解任したので、自分は日輪の子……。

秀吉が、武士でもなければ、貴族でもないことは誰もが知っている。天下を取っても「武士の出」ではない秀吉は、周囲から軽蔑の眼差しで見られているのでは、と言う思いに苛まれていた。実際にはそうでもなくて、秀吉のコンプレックスが作り出した妄想によるものかも知れないのに、自分の力と才覚で、天下人になったとは言え、実力ではどうしようもない氏素性が秀吉のアキレス腱となっていた。

そんな、秀吉の最終手段が「豊臣」の姓だった。藤原鎌足や橘諸兄がそうであったように、誰も名のったことのない新たな姓を天皇の臣下とともに、朝廷から賜ることによって、自分の氏素性が明確になる……。

これで、やっと貴種、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と肩を並べることが出来た。それは、一介の農民から、この国のすべてを手に入れた男が、願っても願っても手に入れられなかった「血筋」を手に入った瞬間だった。

だけど、それにしてもなぜ「豊臣」なのだろう。
「臣」は朝廷の家臣の意味とすぐにわかるけど「豊」とは、豊かさ、富を表す言葉。だが、その頃の秀吉が特別に豊かであったわけではない。「豊臣」の姓を受けてからの方が豊かになっている。わかりやすく言えば、九州征伐の時と前ではその資金力が随分違う。さらに、その後の小田原攻めはすごい軍備を誇っている。

当時の天皇は、今では信じられないほどの極貧生活をしていた。何しろ、天皇が明日の食事の心配をしてたくらい。そんな天皇家のどこに「豊」があるのだろう。だが、ここに摂関家がある。天皇家と摂関家は一心同体で、天皇家が極貧だから、摂関家も極貧と思われがちだけど、これがそうでもないらしい。

つまり「豊」を保証するのは摂関家。色々働いてくれれば、秀吉の「豊」は摂関家が保証するよ。持ちつ持たれつで、と言うもの……。

そして、「豊かなる臣、豊臣」が誕生した!

派手好きな秀吉にはピッタリな、豊臣の姓の顛末でした。

★余談の余談★
どーしても、ホシイのぉ、と言って、若い有望騎手をタダの種馬にした、三十路巨乳女……。


明日は何の日・12月19日
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タグ:豊臣秀吉
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2009年12月17日

(木)行きも帰りも、非常口から……

非常の人。

明日、12月18日は、平賀源内の忌日。1780年安永8年のこと。

平賀源内(1728享保13年〜1780年安永8年12月18日)
高松藩主の子として生まれ、22歳で家督を継ぐ。高松藩蔵番職に。翌年、長崎留学。この長崎で外国のさまざまな文化にふれ、学問に目覚める。

高松に帰国後、歩く距離を測る量程器、方位を測る磁針器を作り、新し物好きな藩主、松平頼恭(よりたか)の目に止まり、藩の国産品開発を担当する。そして、高松名産の白砂糖を開発。

32歳のとき、妹婿に家督を譲り、江戸へ。そこで、薬品会を開催し、大盛況となる。薬品会とは、現在で言うところの博覧会と物産展を兼ね合わせたようなもの。源内は5回薬品会を開いている。このどれも人々を驚かすようなものばかり集めていた。

薬品会の成功から、高松藩に呼び戻され、再度召抱えられる。だが、藩のお抱えとなれば自由な研究も出来ず、34歳で再び脱藩。今度は高松藩から「任官お構い」の沙汰がでる。任官お構いとは、他藩に仕官してはいけないと言うこと。

そして、源内は金を稼ぐためにあらゆることに手を出す。よく知られているのは、コピーライター。土用丑の日うなぎや清水餅。また、戯曲や浄瑠璃の台本も書いた。特に「神霊・矢口渡」では、南北朝の新田義興が主人公。クライマックスで正義の矢が降ってきて、主人公の危機を助けると言うもの。

この物語の舞台の新田神社では実際に、正義の矢がお土産として売られ大評判に。さらに、この矢が破魔矢の始まりとなったと言うんだから、すごい。

36歳のとき、秩父で石綿を発見し、燃えない布、火浣布(ひかんぷ)を作り、焼き物や魚図鑑、油絵、平線儀なども作っている。一方では金山の発掘に失敗し、多くの借財を抱えることも。47歳のとき、翻訳の仕事で長崎に行き、ここであの有名なエレキテルと出会う。オランダから輸入された小さな箱。何に使うのか誰にもさっぱりわからない。壊れているようなので、蔵の隅に捨てられていた。その箱を静電気の知識のない、オランダ語も読めない源内が修理、復元。人々は小さな箱から発声する電気の火花を見て「魔法だ!」と驚く。また、温度計を一目見て、その原理を理解し、寒熱昇降器を作り、それで儲けた金を借金の返済に充てている。

だが、源内の孤独は深まる一方だった。自分の気に入ったものは評価されず、そうでもない物がバカ売れする。源内は産業を起こして国を豊かにすれば、人々の暮らしは楽になると考えていた。それが、薬草、生糸は海外輸入。代金は法外な金、銀、銅で支払う。わざわざ海外輸入しなくても国内で調達できるものは数多くあると確信し、そのことが源内の研究の原動力になっていた。

杉田玄白などは、オランダ語にも通じており、源内の非才ぶりを十分理解していたけど、多くの人々にとって、源内はやはり奇人・変人でしかなかった。源内は孤独を深めていったのではないだろうか……。

1780年安永8年源内が大名屋敷の修理を請け負った。だが、酔って寝て起きると修理計画書がない。それを盗まれた勘違いした源内は一緒に飲んでいた2人を殺傷してしまった。計画書は源内が箱の中に……。

11月21日に入牢、12月18日、獄中死。52歳。

「ああ、非常の人、非常のことを好み、行うもこれ非常。何で非常の死するや」
これは親友の杉田玄白が源内の碑に刻んだ言葉。
日常が非常なのだから、せめて死ぬときは、畳の上で普通に死んでほしかった……。

平賀源内は生まれるのが早すぎた。後世の人は、源内がもっと遅くに生まれていたなら、どんなすばらしい発明をしてくれただろうとか言うけど、果たしてそうだろうか。現代の日本に生まれていても、奇人・変人として、ワイドショーの繋ぎネタくらいにしか扱われないのではないだろうか。

日本は少数派にはものすごく冷たい。すぐに異端視する。

平賀源内が現在、万能の天才、日本のレオナルドダビンチと評価されているのが、せめてもの救い……。


7月30日(木)パクリは、平賀源内もやっていた!

明日は何の日・12月18日
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2009年12月16日

(水)日本最後の仇討ちの誤算!

恨み、恨まれ……。

明日、12月17日は、日本最後の仇討ちがあった日。1880年明治13年のこと。

日本三大仇討ちと言えば、曽我兄弟の仇討ち。荒木又衛門の助太刀で有名な仇討ち。そして、つい、先日の赤穂浪士の討ち入り。

江戸時代までは美談として称えられていたけど、明治になり西洋の道徳の影響で、仇討ちは野蛮な風習と考えられるようになり、1873年明治6年に復讐(仇討ち)禁止令が発令された。その禁止令により、しばらくは鳴りを潜めていた仇討ちが起きてしまった……。

1880年明治13年12月17日、旧秋月藩士の臼井六郎が、東京上等裁判所判事、一瀬直久を京橋の黒田長徳邸内で刺殺し、その足で警察に出頭。

日本中が「佐幕派」と「勤皇派」に真っ二つに分かれていた幕末の頃、当時藩命で京都にいた秋月藩の臼井亘理(わたり)や重臣たちは、どちらかと言えば佐幕派だった。それが、大政奉還、王政復古の大号令で事態は急変。幕府の凋落を目の当たりにし、これからは勤皇かなと考えるようになっていた。そのせいもあったのかどうか、亘理はしばらく京都に留め置かれた。それがやっと許され、郷里に帰れることとなった。

明治元年5月24日、家族親族とともに帰郷祝いの宴が開かれたその夜、酔いつぶれて寝ていた亘理を、秋月藩の勤皇派、干城隊の若い隊士たちが、亘理と側に寝ていた妻、幼い妹を斬殺。一人、別の部屋で寝ていた、11歳の六郎は助かった。即日、幕府に訴えるものの、藩士たちは亘理こそ国賊と言い張り、その主張が認められ、無罪放免。逆に臼井家は国賊として減禄されてしまう。

納得がいかない六郎……。やがて、学問の道に進むと言うことで東京へ。山岡鉄舟の道場で腕を磨きつつ、仇討ちの機会を狙っていた。そして、父母や妹を直接手にかけたのが、干城隊隊士の一瀬直久だとわかった。一瀬は裁判所の判事にまで出世していた。その一瀬は月に一度、東京三十間堀にある、旧秋月藩主の黒田長沖が開く碁会に時々参加していた。

その当日、六郎が物陰から黒田邸の様子を伺っていると、一瀬が入っていくのが見えたので後を追いかけ、父の愛刀の短刀で刺殺。騒ぎを聞きつけ、駆け寄る人の中には六郎の顔を見知っている者もおり「六郎、どうした!」と叫ぶ。六郎は「御邸内で騒ぎを起こしたることを深くお詫び申し上げます」と言い、待たしていた人力車で、警察に出頭。その時、22歳。

当時としては犯罪であるとは言え、六郎の仇討ちは賞賛された。だが、東京裁判所は六郎に終身禁固刑を言い渡し、服役。1890年明治23年6月、大赦により、仮出獄。その時には自由民権運動の大井健太郎らが出迎え、盛大な祝勝会が開かれた。六郎は後に大陸に渡るものの、帰国。妻を娶り、60歳まで生きた。

仇討ちは、美談か、単なる人殺しか……。
赤穂浪士にしても、六郎にしても、最初の上の人の判断・最初の判決で、以下に、被害者遺族に恨みを残させない公正な判決をするかでしかない。

本当は、恨みを持って生きることこそ、悲しい……。


5月27日(水)雨と、仇討ちの先にあったもの!
11月6日(金)本当は36人のボーイズラブ
12月13日(日)バカ殿、参上!

明日は何の日・12月17日
かわいい飛行機の日
かわいい安全の日
かわいいいなりの日
かわいい国産ナス消費拡大の日

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2009年12月15日

(火)サダコ、急ぎ立つ……

佳人薄命……。

明日、12月16日は、藤原定子の忌日。1001年長保2年のこと。

藤原定子(ふじわらのていし、さだこ。977年貞元2年〜1001年長保2年12月16日)
父は、関白藤原道隆。母は、高階貴子(たかしなのきし)990年正暦元年1月25日、14歳で3歳下の第66代、一条天皇に入内。

父の道隆は陽気な人で、よく冗談を言っては人を笑わせていた。母の貴子は漢文学者で才女の誉れ高い女性。その母が一発で落ちたほど、道隆はイケメンだった。そんな両親のいいとこ取りをしたような定子は、一条帝とも仲むつまじく、清少納言が出仕した頃の、定子の文学サロンは、隆盛を極めていた。その頃の様子は「枕草子」生き生きと綴られている。

だが、この頃を頂点に定子に不幸が忍び寄る。まず、父が亡くなり、弟の伊周と隆家が部下に命じて、花山(かざん)法皇を脅し打ちする事件を起こす。伊周は藤原為光の娘で、美人の三の君のもとに通っていた。花山法皇は同居の四の君のもとに通っていた。それを隆家は三の君の元に通っているものと思い込み、脅し討ちをした。幸い、花山法皇にケガはなく、法皇も出家の身でありながら愛人の許に通うと言う、不謹慎な行為を内密にしようと思っていたけど、この事件はその日のうちに朝廷内に知れわたってしまった。

当時、出産のため、里帰りしていた定子の目の前で、検非違使が侵入し、弟が捕えられるのを見た定子はショックで自ら髪を切り出家する。その後、母も亡くなり、そして、脩子(しゅうし)内親王を産む。

一条帝は定子の落飾を許さず、内密に通ってきていた。2年後、父が待ち望んでいた皇子、敦康親王を産む。だが、第2内親王、び子(びは女偏に美しい)を産んだ翌日、定子は崩御。享年、24歳。定子の希望で鳥野辺に土葬されることになった。

今回の出産は今までの出産とは違う思いがあり、死を悟っていたようで、死後、三首の歌が帳の紐に結び付けてあるのが発見されたときは、宮廷内は新たな涙にくれた。

 よもすがら 契りしことを 忘れずは 
    恋ひん涙の いろぞゆかしき

 知る人も なき別れ路に 今はとて 
    心細くも 急ぎたつかな

 煙とも 雲とも知らぬ 身なりとも
    草葉の露を それとながめよ

また、天皇ゆえに定子の葬列に加われない、一条帝の歌

 野辺までは 心ばかりは 通えども
    わが行幸とも 知らずやあるらん

「鳥野辺に私の心は付いて行っているけど、あなたはこの雪が私だとわかってくれるでしょうか」

雪の降る日でした……。


明日は何の日・12月16日
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2009年12月14日

(月)?子子子子子子子子子子子子?  

行ったり、来たり?

明日、12月15日は、小野篁が、隠岐へ流罪となった日。838年承和5年のこと。

「子子子子子子子子子子子子」 
さて、これは何と読むでしょう。答えは最後に。

小野篁(おののたかむら、822年延暦21年〜853年仁寿2年12月22日)
父は参議、小野岑守(みねもり)篁のことをよく知らない人でも、初代遣隋使、小野妹子の子孫。孫が小野道風、小野小町と言えば、わかってもらえるのでは。また、身長が六尺二寸(188センチ)あったと言うから、ものすごい長身。

頭のいい一族で、篁も政治家、文人、歌人で、東宮学士(皇太子の家庭教師)を務めた後は、高級官僚に。その上、剣も弓も乗馬も軽くこなしたと言うから、もう、女性にはモテモテ。

さらにさらに、昼は宮中に勤め、夜は魔界のえん魔様の元で仕事をしていたと言う逸話が残っている。つまり、あの世とこの世を行き来出来る人……。

その篁が30代半ばの承和5年、遣唐副使に任じられる。だが、篁は最早、遣唐使は不要として廃止を唱えた(実際には56年後に廃止)ことから、遣唐大使の藤原常嗣と対立しただけでなく「西道揺」と言う遣唐使制度を批判した詩を詠み、嵯峨天皇の逆鱗に触れる。一切の冠位、官職を剥奪され、隠岐に流罪。

 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 
     人には告げよ あまのつり船

「今、船が多くの島に向って、海の彼方に漕ぎ出したことを、都の人に伝えてよ」

百人一首の11番に入っている歌。

当然、隠岐でもモテて、島の女性との間に一子をもうけている。でも、2年後には許されて、帰京。それからは出世街道まっしぐら。847年承和14年には従三位に帰り咲いている。きっと、島の女性のことなんて忘れたことでしょう……。

あるとき「無善悪」と書かれた札が何者かによって御所に立てられた。

嵯峨 篁、これが読めるか。
篁   読むことはできますが、差しさわりが……
嵯峨  いいから、読んでみよ。
篁     悪(さが、嵯峨天皇のこと)無くば善(よ)からん。

 つまり、嵯峨天皇なんかいなくていいと言う意味。

嵯峨  誰も読めなかったものをお前が読めたと言うことは、
    お前がこれを書いた犯人だ!
篁   私は犯人ではありません!
嵯峨 では、お前は何でも読めるのか。
篁   読めます。
嵯峨 なら、これを読んでみよ。
   
 子子子子子子子子子子子子

篁    猫の子の子猫、獅子の子の子獅子

さすがの嵯峨天皇も大笑いするとともに感心し、罪を許したと言う。


明日は何の日・12月15日
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2009年12月13日

(日)バカ殿、参上!

バカに、やられた……。

明日、12月14日は、吉良上野介義央の忌日。1702年元禄15年のこと。

ご存知、忠臣蔵の悪役。でも、本当に悪人だったのだろうか……。

吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか、1641年安永18年9月2日〜1702年元禄15年12月14日)
1701年元禄14年3月14日午前10時頃、城内大廊下(松の廊下)で、上野介は浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)から、背中と額を切りつけられる。殿中で刀を振り回したとして、内匠頭は即日切腹。ここまでは事実。

だけど、わからないのは内匠頭が上野介に切りつけた理由……。「赤穂浪士」の芝居では、吉良のいじめに耐えかねた浅野がついに爆発したとなっていることが、世の父親たちの共感を呼び、さらに、敵討ちの場面でスカッとさせてくれるから。

だが、その時、側にいて一部始終を目撃していた人物がいた。旗本、梶川与惣兵衛(よそべえ)内匠頭を「殿中でござる」と、後から抱きとめた人。その梶川が書いた「梶川日記」によると、当日、大廊下で吉良と話をしていたのは梶川本人。そこに何者かがいきなり「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで、吉良を背後から切りつけた。誰かと見ると、浅野だった。吉良も「これは…」と振り向いたところ、眉間にもう一太刀。吉良がうつぶせになったところを、さらに浅野が切りつけようとするのを梶川が背後から抑えた。

芝居では、吉良と浅野が口論していたとなっているけど、実際に吉良と会話をしていたのは、梶川。また、当日の装束は長袴で動きにくい。刀は「小サ刀」と呼ばれる短刀。この短刀では突かなくては相手を殺傷できない。動きにくい格好で切りつけて、浅野は吉良を本当に殺害しようとしたのだろうか。この間の遺恨と言うけど、殺傷に及ぶだけの遺恨があったのだろうか。

吉良の傷は浅かったけど、当時としては高齢の61歳であるとともに、御殿医が止血できなかったこともあり、軽いショック症状を起こしていた。しかし、外科医の栗崎道有が気付け薬を飲ませてから止血、傷の縫合を行い、湯漬けを食べた後、正気を取り戻した。その後、吉良は「意趣を含まれる覚えはない、大方、浅野殿の乱心であろう」と語っている。

だが、幕府にも手落ちがある。芝居ではケンカ両成敗であるはずと言うのが、赤穂浪士の仇討ちへの布石となっているけど、実際はケンカをしていたわけではなく、いきなりの狼藉なのだから、浅野が罰せられることは当然としても、遺恨の理由を聞きもせずに、即座に切腹を申し渡した。その理由を聞いてからでも遅くはなかったと思うのに、何をそんなに急いだのだろう……。

よって「この間の遺恨、覚えたるか!」の言葉が一人歩きすることになる。何か事件が起きると、人はその背景や首謀者の心理状態を分析したくなるもの(本当のところはわからないくせに)そこで、てっとり早く行き着いた結論が、切りつけられる方も悪い、きっと、年寄りの吉良が若い浅野をいじめていたに違いない、と。

本能寺の変は失火であり、火事を知って駆けつけた明智光秀が、意地の悪い京都の人たちから「明智の謀反だ!」と囃し立てられ、どうしようもなくなり、自滅の道をたどることになった。でも、江戸っ子は「弱いもの」の味方をする。なので、みんな、浅野の味方。そんな世論に屈したのか、幕府は吉良を都会の呉服橋から、当時は辺鄙な田舎の本所に屋敷を移させた。その頃には浅野の残党が仇討ちをするのではとのうわさで持ちきりだった。仇討ちがしやすいように吉良を田舎に追いやった?

1702年元禄15年12月14日の深夜。赤穂浪士たちは仇討ちを決行!だが、このとき、赤穂浪士の後をつける者達がいた。それは見物人。300人ほど。吉良邸討ち入りは秘密裏に行われていたのでなく、多くの人が知っており、その中には新井白石もいた。また、その時の装束は芝居のように揃いのユニホームではなく、みんな、バラバラ。山鹿流の陣太鼓なんてない。普通の小さな太鼓とドラが一つ。笛は多くの浪士が持っていた。

いよいよ討ち入り。辺鄙な場所に移ったとは言え、高家、吉良の屋敷。そこには浪士たちが食べたこともないような、菓子などの食べ物があった。思わずそれを口に入れてしまう浪士。つまみ食いをしながら、吉良を探しても大丈夫なほど屋敷は広かった。

そして、炭小屋に隠れていた吉良が雪の上に引きずり出されるシーン。でも、当日、それほど雪は降っておらず、引きずり出されたとき、吉良はすでに死んでいた。隊士の吉田忠左衛門、間十次郎が台所横の炭小屋から話し声したので、中に入ろうとすると、2人の吉良の家臣が切りかかってきた。2人を切り伏せた後、何やら奥で動くものがあり、十次郎が槍で突くと、脇差しで抵抗してきたため、武林唯七が切り捨てた。それが吉良だった。とにかく「本懐」は遂げられた。

それにしても、見物人が出るほどに知れ渡っていた、赤穂浪士の押し入りに対して、吉良家はもっと警備を強化するとかの対策を、取らなかったのだろうか……。

だが、当てが外れてしまったのは、浪士たち。彼らのほとんどは主君の仇討ちが本懐ではなく、何があったか知らないが、殿中で刀を振り回すなどど言う行為に及んだ、バカ殿のお陰で職を失って苦しい毎日。この上はバカ殿を利用して再就職をしたい。そのための「仇討ち」だった。

大石蔵之助は取り立てて暮らしに困っていたわけではないけど、元配下のグチを聞いているうちに、いつの間にか仇討ちの代表者に祭り上げられてしまった。大石が遊びまわっていたのは、世間の目をくらますためではなく、元々が遊び好き(そのために何度か謹慎を食らっている)であり、抜けられなくなった「組織」に対するやけくその気持ちから。金は家老時代にたっぷり貯め込んでいた。

そして、切腹当日の浪士はみんな、へべれけに酔って、自力では立てないほどだった。まともに切腹したのは、ほんの数人。この当時の切腹は、小刀で腹を突かなくても、扇子での代用も許されていた。そんなことより、きっと再就職先は引く手数多だろうと浮かれていた浪士たちは、その期待も空しく、切腹の沙汰を聞いて地獄へ突き落とされてしまった。

こんなはずではなかった……。

恐くて恐くて、切腹なんて出来ない。その恐怖心を紛らわせるために、酒を大量に飲んだ。これが浪士たちの真実。

一方、吉良の実孫で養子の左兵衛義周(さひょうえよしちか)は討ち入り当日は長刀を持って応戦するも負傷。浪士たちに切腹の沙汰が下るのと同時に「当夜の振舞いよろしからず(父を助けることも出来ず、討ち死にもしなかった)」として、領地は没収、信州諏訪高島の諏訪家にお預かりとなった。厳しい幽閉生活の3年後の1706年宝永3年1月20日、21歳で没した。ここに、吉良家は滅亡。

吉良義央は、名君として今も慕われている。だが、仕事の出来ない、短慮な部下を持ったばかりに、悪人にされ、家は滅亡。

そして、みんな、不幸になった……。


6月21日(日)本能寺の変・明智光秀はえん罪です!

明日は何の日・12月14日
かわいい忠臣蔵の日
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かわいいめんの日
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2009年12月12日

(土)海から逃げた人、海にたどり着いた人……

♪海は広いな、大きいな〜

明日、12月13日は、武田信玄が今川館を襲撃した日。1568年永禄11年のこと。

前日、つまり今日。事前の内通工作の成果により戦わずして、要所の薩た(さった、たは土へんに垂)峠を制し、駿河(静岡)に進攻した、甲斐(山梨)の武田信玄。

自ら出陣して、さった峠近くの清見寺に布陣し、信玄を迎え撃つつもりだった今川氏真(うじざね)も、度重なる味方の寝返りに、あわてて本拠地の今川館に逃げ帰る。

今川館は、後に駿府城になる場所で、平坦な場所に建てられたとても城と呼べるような建物ではなく、守りには向かない。氏真は、今川館では防御に不利と考え、相模の北条氏政に援軍を要請するとともに、今川館の背後にある賤機山(しずはたやま)城に籠城し、北条の援軍を待つ作戦に出た。

だけど、この程度の作戦、信玄にとっくに読まれていた。信玄は駿府に入ると、武家屋敷や民家に火を放ち、混乱のドサクサのうちに、氏政より先に賤機山城に到着し、城を占領。

仕方なく今川館で籠城する氏真。だが、到底武田の軍勢に太刀打ちできるはずもなく、その日のうちにあえなく撃沈。氏真は遠江の掛川城に逃走。

信玄は今川館の宝物を奪えと下知していた。だが、馬場美濃守信房は一騎で館に火をかけすべてを焼き払った。理由は「宝物を奪う貪欲な戦さと侮られ、主君の評価が下がる」

この戦いで、南北朝以来守りつづけて来た駿河の地を失うことになった今川氏。逆に、山に囲まれた山梨で生まれ育った信玄が、喉から手が出るほど欲しかった海を手に入れ、その後はあの高名な甲州水軍の養成に力を注ぐ。

掛川城に逃げた氏真を、この先追い詰めるのは信玄ではなく「今川を手に入れたら、半分個しよう」と約束を交わし、信玄の別働隊として侵攻していた、徳川家康。その話は、また、その前日に書きます。

父の義元と同じように風雅を好み、蹴鞠の名手だった氏真。でも、蹴鞠で戦さが出来きるはずもなく、戦いに不向きな武将は、その後、逃げまくりの人生を送ることに……。


明日は何の日・12月13日
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2009年12月11日

(金)長く、激しい、あなたも……

戦死ではなく、戦中死……。

明日、12月12日は、畠山義就の忌日。1490年延徳2年のこと。

畠山義就(はたけやまよしなり、1437年享徳9年?〜1490年延徳2年12月12日)
能登、越中、河内、紀伊の守護職、管領を務める畠山氏の当主、持国には実子がなく、弟の持富を嗣子に指名していた。だが、側室には子供がいた。それならこの側室の子が後継になるはずだけど、この側室と言うのが曰くつきの女で、義就の後に、小笠原政康との間に持長を、飛騨の有力御家人、江間氏との間にも子供を生んでいる。言わば、当時の高級娼婦。それで、本当に持国の子供かどうかも疑わしいところもあり、嫡子とは認められず、岩清水八幡宮の僧になるはずだった。それが12歳のとき、にわかに父から呼び出され、1448年文安5年、畠山の家督を継ぐことに。このことによって義就派と、反義就派の壮絶な争いが延々と続くことに……。

突如、後継から外された持富は息子、弥三郎を擁立して、反乱を計画。その計画を察知した持国によって、1454年享徳3年に乱は鎮圧される。だが、弥三郎は細川勝元の援助を受けて、反撃。持国は隠退。義就は伊賀国へと逃れる。その後、義就は、足利義政を頼って上洛。今度は弥三郎を撃退。1455年康正元年、持国が没すると正式に畠山の家督を相続。山城、河内、紀伊、越中の守護職と大和国の所領は安堵される。

追われた弥三郎は、1459年長禄3年に没し、その弟、政長が家臣によって擁立され、1460年寛正元年細川勝元、伊勢貞親らによって、政長は畠山氏の総領と認められる。

これによって、畠山の総領の地位から引きずりおろされた義就。河内国岳山城に籠もっての武力行使。幕府の援軍を得た政長軍との攻防戦は1463年寛正3年、岳山城が陥落するまで続けられ、少ない手勢で政長軍と戦った義就の武功は高く評価された。その後は高野山を経て、大和国へ移り、紀伊、河内の国人領主たちと河内へ進出。政長との抗争は続く。

義就は、細川勝元と対立する、山名宗全の助力を受けて、政長の管領を罷免することができ、また、将軍の赦免を得て河内、紀伊、越中の守護に任じられる。1466年文正元年5千の兵とともに、またしても上洛を果たした義就。千本地蔵堂に陣を敷き、早速、山名宗全に挨拶。

義就‥このように上洛できましたのも、ひとえに山名様のお
     陰です
山名‥あなたの上洛は私にとっても、大慶です。

と、酒宴も和やかに行われた。
翌朝、義就の陣の千本地蔵堂の入り口の扉に、落首が一首。義就の正式名は、畠山右衛門佐義就。

 「右衛門佐 いただくものが 二つある
       山名のあしと 御所のさかづき」

「山名のあしをいただく」とは、山名の足元に平伏すること。「恥も外聞もなく、山名にひれ伏したお陰で、将軍と和解でき、名誉と身分が回復できてよかったね」京都の人たちは、大昔から、こう言う皮肉がお好き。

だが、これで終わったわけではなく、ここからが本当の本番。1467年応仁元年1月、義就と政長の直接対決が勃発!この直接対決が応仁の乱の最初の直接対決となる。

応仁の乱とは、将軍家の後継争い、山名氏、細川氏の政治闘争に、斯波氏、畠山氏の家督争いが複雑に入り組んだ争乱。両者決着が付かないままに、だらだらと10年も続いた。そして、1473年文明5年、細川勝元(東軍)山名宗全(西軍)の両将の病死に伴い、応仁の乱は沈静化していく。

だが、義就の打倒、政長の一念が和睦を拒み続け、1477年文明9年、主戦論者の義就が京都を離れたことにより、一応の終結をみるものの、義就は河内でも政長と抗争を続け、その大半を支配するものの、1490年延徳2年12月12日、河内の陣中で没。

畠山氏の義就派は、義昭還俗の頃を最後に歴史からこぼれ落ち、政長派は、1574年、信長包囲網に加担した昭高が自刃して滅亡。

憎悪は人間の壮大なパワーとなる。その元の人間を生み出すのは、女。義就の母の生んだ小笠原氏の持長も、家督相続の火種となっている。

げに、女の腹の中は……。


6月23日(火)ママ!ボク、生まれない方が良かった?IN戦国
11月15日(日)きっかけVSキッカケVSきっかけ

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2009年12月10日

(木)京の茶漬けを、江戸で食べれば!

「京の茶漬け」とは、もう帰れと言う意味。

明日、12月11日は、江戸時代の臨済宗の名僧、沢庵宗彭の忌日。1646年正保2年のこと。

沢庵宗彭(たくわんそうほう、1573年天正元年12月1日〜1646年正保2年12月11日)

出石(兵庫)城主、山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣、秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)の次男。豊臣秀吉に滅ぼされ山名家は滅亡、父は浪人となった。10歳のとき、出石の昌念寺で出家。14歳で同じ出石の宗鏡寺(すきょうじ)の希先西堂に師事。希先が没した後、当時の出石藩主、前野長康は大徳寺から、春屋宗園の弟子、薫甫宗忠(とうほそうちゅう)を住職に招く。

1594年文禄3年、宗忠が大徳寺の住持となったため、沢庵も大徳寺に入ることになった。宗忠の死後は、堺の南宗寺で一凍紹滴(いっとうしょうてき)に師事。
1604年慶長9年、沢庵の称号を得る。
1607年慶長12年、大徳寺主座となるも、南宗寺の住持も兼ねる。
1609年慶長14年3月7日、大徳寺第154世住持に出世する。だが、名利を求めない沢庵は3日で大徳寺を去り堺へ戻る。
1620年元和6年、郷里出石に戻り、藩主小出吉英が再興した宗鏡寺に庵を結日、投淵軒と名づける。

江戸幕府が成立すると、寺社への締め付けが厳しくなっていた。1627年寛永4年、後水尾天皇が幕府に断りなく、紫衣の着用を許したことを法度違反として、京都所司代に紫衣の取り上げを命じた「紫衣事件」が起きる。沢庵も急ぎ京都に上り、前住職の宗珀(そうはく)妙心寺の単伝、東源らと反対運動を行う。

1629年寛永6年、沢庵は出羽国上山へ、宗珀は陸奥国棚倉へ、単伝は陸奥国由利、東源は津軽へ流罪となる。

上山藩主、土岐頼行は、名僧沢庵に心酔し、厚遇。

1632年寛永9年、2代将軍、徳川秀忠の死去に伴う大赦令で、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に関係した者は許され、沢庵は江戸の神田の広徳寺に入るものの、京都に帰ることは許されなかった。

一旦は郷里に帰るものの、3代将軍、家光に懇願され、江戸に留まることとなった。1639年寛永16年、家光が萬松山東海寺を創設。沢庵が住職となる。

1646年正保2年12月11日、沢庵死去。遺言「自分の葬儀はするな。香典は一切もらうな。死骸は日が暮れてから担ぎ出し、山に埋めて二度と来るな。墓は作るな。朝廷から禅師を受けるな。位牌は作るな。法事をするな。年譜を誌するな」

沢庵と言えば、沢庵漬。家光が最近何を食べても、それほどうまいと思わなくなったことを嘆いたところ、沢庵の庵に、途中で帰らないことを条件に招待された。家光は沢庵が何を食べさせてくれるのだろうと期待していた。でも、午前10時ごろに着いたのに、午後2時頃になっても食事がでてこない。空腹でたまらない家光に、やっと茶漬けと漬物が出された。将軍であることも忘れたかのように、がっつく家光。

一息ついた家光は漬物の味に感心する。尋ねると「たくわえ漬」だと言うので「たくわえ漬と言うより、沢庵漬じゃ」と言ったとされるているけど、これは風聞の域を出ないし、たくわえ漬のような漬物は以前からあり、空腹が最高のごちそうと言うのも、似たような話はいくつもある。

また、沢庵和尚と宮本武蔵に接点はない。これは作家、吉川英治のまったくの創作。

沢庵和尚は清貧の人。それだけ……。

それが、すごいのです!


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タグ:沢庵和尚
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