2009年11月10日

(火)総大将は、ユートピアに……

総大将が……。

明日、11月11日は、耳川の合戦があった日。1578年天正6年のこと。

前年の5月、木崎原の合戦での奇襲で、薩摩(鹿児島)の島津義弘に大敗をきし、日向(宮崎)の南半分を奪われた伊東義祐(よしすけ)は豊後(大分)の大友宗麟の元に逃げ込み、支援を求める。「島津を追っ払ってくれたら、日向を半分あげる」と言う義祐の誘いに、そこにキリスト王国を造ろうとした宗麟は、息子に家督を譲った後、3万5千の大軍を率いて海路、日向無鹿(むしか、宮崎・延岡)に着陣したのが、1578年天正6年8月12日。キリシタン王国のユートピア建設を進める宗麟。

そんな宗麟の別同部隊は陸路を南下していた。重臣の田原紹忍(しょうにん)の率いる2万の軍勢は境界線の耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎・木城町)に迫っていた。

城の北には田北鎮周(しげかね)東方には星野鎮種(しげたね)白のすぐ東には佐伯宗天(そうてん)を配置。総大将の紹忍は宗点の後方に陣取り、10月20日城の包囲は完了。

一方の城を守る山田有信は、大友軍の動きを薩摩に知らせようとして、2キロ南の佐土原城(さどわらじょう、宮崎)の島津家久(義久の末弟)に知らせる。家久は即座に大友軍の包囲をくぐって、高城城内に入城。この援軍に城内の兵を合わせると何とか3千になった。小競り合いで時間を稼ぎつつ、籠城を続ける高城。

有信から知らせを受け取った当主、島津義久は3万の大軍を率いて、薩摩を出陣。11月1日に佐土原城に到着。さらにあちこちから駆けつけた島津軍で5万にふくれ上がり、対する大友軍も援軍が到着して、総勢6万となった。

いよいよ決戦の日が近づいてきた。島津義弘(義久の次弟)は大友への伏兵を仕掛けるべく、より高城に近い財部城(たからべじょう、宮崎)に入る。

しばらくの間降り続いた雨も止み、11月11日白昼。決戦の火蓋は切って落とされた。先日の夜、闇に紛れて4千余の義弘軍の伏兵は川を渡り、宗天の陣とその後の総大将紹忍の本陣との間にひそかに入り込み、このときを待っていた。

伏兵がいるとは知らず、宗天の陣と紹忍の本陣の間を行き来する大友の兵士達。そこをいきなり奇襲。まったく無防備なところを奇襲された大友軍は乱れ、宗天の陣は焼き払われ、陣を逃げ出したところに朝早く財部城を出た残りの義弘軍が加わって交戦。

本陣や他の大軍が反撃を試みるも、これに高城に籠城する城兵が牽制。大友軍は完全に分裂。何の反撃も出来ないままに、この日は500余命の死者を出す大敗。5万の島津と6万の大友。互角の戦いと思われたこの戦はふたを開けてみれば島津の大勝。

この日の夜、義久の本隊は根白坂(ねじろさか)に到着。いよいよ明日こそ決戦。だが、秘策はある。

一方の大友軍の夜の軍議は喧々囂々(けんけんごうごう)意見は出るものの、一向にまとまらなかった。一応は敵の様子見をしてから、と言う雰囲気でその夜の軍議は終わったものの、初日の連携乱れは翌日も続くこととなる……。

その話は、また、明日。


8月11日(火)昔の光、今、オデコに……
8月 4日(火)哀・過去の男に似ている……IN日向

明日は何の日・11月11日
かわいい世界平和記念日
かわいい公共建築の日
かわいい配線器具の日
かわいい電池の日
かわいいおそろいの日
かわいいピーナツの日
かわいいチーズの日
かわいいサッカーの日
かわいいくつ下の日
かわいい折り紙の日
かわいい下駄の日
かわいい鮭の日
かわいい西陣の日
かわいいミュージカル「キャッツ」の日
かわいいコピーライターの日
かわいいポッキー&プリッツの日
かわいいもやしの日
かわいい煙突の日
かわいいきりたんぽの日
かわいい磁器の日
かわいいかりんとうの日
かわいいライターの日
かわいい介護の日
かわいい長野県きのこの日
かわいい麺の日
かわいいアイドルドッグの日
かわいいネイルの日
かわいい麺の日(毎月)
かわいい両手利きの日(未登録)

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2009年11月09日

(月)父のためだけに、咲いた花……

その怒りの矛先は、娘だった……。

明日、11月10日は、明正(めいしょう)天皇のご命日。

第109代、明正天皇(1624年元和9年11月19日〜1698年元禄9年11月10日、在位1629年寛永6年11月8日〜1643年寛永20年10月3日)
後水尾(ごみずのお)天皇の次女、興子(おきこ)内親王。母は、徳川秀忠の娘、和子(まさこ)父の命により、7歳で践祚(せんそ、即位の儀式)称徳(しょうとく)天皇以来の859年ぶりの女性天皇。10歳下の異母弟、紹仁(つぐひと)親王(後光明(ごこうみょう)天皇、1633年〜1654年、在位1643年〜1654年)が11歳になったとき譲位。譲位後は太政天皇として出家。

当時、後水尾天皇には配偶者がいたのに、幕府は秀忠の娘、和子を強引に嫁がせる。また、その後も幕府は何かと朝廷に圧力をかけてきた。そして、起きた紫衣(しえ)事件。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟のことで、古くは宗派を問わず高徳の僧・尼が朝廷から賜っていた。僧・尼の徳の高さを表すものであり、朝廷の収入源の一つだった。

それを幕府が、許可なく紫衣や上人号を授けることを禁じた。だが、後水尾天皇は、従来の慣例通りに10数人に紫衣の着用を許可する。幕府(3代将軍、家光)は1627年寛永4年、事前に許可がなかったので、法度違反として、紫衣を取り上げるよう命じ、朝廷とともに反対した沢庵和尚はじめ、高僧を出羽国、陸奥国に流罪にした。また、徳川家の乳母である斉藤ふくが、無位無官のまま宮中に上がりこみ、天皇や中宮に拝謁し「春日の局」と言う称号を奪い取っていった事件……。

それら、幕府の圧迫に耐えかねた後水尾天皇は病気を口実に譲位し、まだ7歳の興子内親王を即位させる。あわてたのは幕府。後水尾天皇の譲位などは望んでいなかった。だが、後水尾天皇は強引に即位を推し進めた。これは天皇家に徳川の血を入れぬため、後世までその類が及ばぬように、徳川の血を引く娘を即位させたのだと言われているけど、興子内親王の同母妹の、昭子内親王、賀子内親王は五摂家の近衛家、二条家に降嫁させている。

譲位した明正天皇は、女性天皇の習いとして、一生独身を通さなければならなかった。そればかりか後水尾天皇や幕府の承認がなければ、外出も他人との面会もままならなかった。きっと、お寂しい一生だったと思う。

こう言うお方こそ、政略結婚の「真」の犠牲者……。


明日は何の日・11月10日
かわいい肢体不自由児愛護の日
かわいいエレベーターの日
かわいいトイレの日
かわいいハンドクリームの日
かわいい禁酒宣言の日
かわいいいい音・オルゴールの日
かわいい技能の日
かわいいインテリア検定の日
かわいいLPガス消費者保安デー
かわいい植物油の日
かわいい頭髪の日

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2009年11月08日

(日)うちの法皇は、カラオケとお手玉がお好き!

明日、11月9日は、源頼朝が権大納言に就任した日。1190年建久元年のこと。

平家を倒し、その倒した義経も消し去り、ついに頼朝は上洛を決意、10月3日、鎌倉を出立。11月7日、千余騎の御家人を率いて、入京。かつて、平清盛が住まいにしていた六波羅の跡地に建てた新邸に入った。

そして、11月9日、後白河法皇に謁見。長時間、余人を交えずに会談。その時、頼朝は東国の支配者の象徴として、熱心に希望した征夷大将軍には任官できず、代わりに大納言への任官を求められるが、頼朝は辞退。後鳥羽天皇に拝謁を終えると六波羅へと戻った。

その六波羅の屋敷に「今に於いては、異儀有るべからず」と記した、権大納言への任官の院宣が届けられる。再び、辞退の書を返すけど受け入れられず、除目(じもく、官の辞令)は行われた。

さらに22日、武官の最高職の近衛大将に任官を打診されるものの、やはり頼朝は辞退。24日には、右近衛大将に任じられる。12月3日、両職とも辞退し、11日、勲功のあった御家人を任官させる。

権大納言に就任した9日の宵。頼朝は九条兼実(かねざね)と面会し、胸襟を開いて語り合う。

「今の世は法皇が思うがままの政治をとり、天皇とて皇太子と変わりない有様、幸いあなたはまだ若くて先は長い。私も運があれば、法皇御万歳(崩御)の後にはいつか必ず、天下の政治を正しくする日が来るでしょう」

逆臣として討たれた父の汚名を雪ぐ(そそぐ)意味で一旦「朝大将軍」(国の将軍)を受けた方がいいと判断し、14日、京を立ち、29日、鎌倉へ戻った。

1192年建久3年3月、後白河法皇崩御。同年7月12日、頼朝は征夷大将軍に就任。一般的には征夷大将軍就任によって、鎌倉幕府が開かれたとされる。

頼朝は、後白河法皇のことを「日本一の大天狗」と評している。その大天狗は父の鳥羽天皇からも「文にあらず、武にあらず、能もなし、芸もなし」と酷評されている。血を吐くほど「今様」にのめり込むかと思えば、平家、源氏。中でも源氏の木曽義仲、義経、頼朝を手玉に取り院政を続ける。ちなみに今様とは、現代のカラオケのようなもの。

だが、手玉に取ったつもりが、これらのことで逆に武士の台頭を許し、朝廷の力を弱めることになってしまうとは……。

やはり、能なしだった?


明日は何の日・11月9日
かわいい太陽暦採用記念日
かわいい119番の日
かわいい換気の日
かわいい歯茎の日
かわいいいいパックの日
かわいいベルリンの壁崩壊の日
かわいいクレープの日
かわいいクジラの日
かわいいパソコン救急の日
かわいいパソコン検定の日

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2009年11月07日

(土)ウグイスのぷち家出もあった、たいらのみやこ!

ウグイスはいち早く鳴いた。

明日、11月8日は、平安京が命名された日。794年延暦13年のこと。

「794(鳴くよ)ウグイス 平安京」の語呂でおなじみの平安京も、最初は「へいあんきょう」ではなく「たいらのみやこ」と訓読みされていた。だけど、当時は一般的には、都のことを京、もしくは京都と呼んでいた。なので、藤原京も長岡京も平安京も、京または京都と呼んでいた。

それにしても、桓武天皇もまさか、ここまでこの地が長く都であり続けるとは思ってなかったことだろう。

古来、天皇が代わると、遷宮(せんぐう、天皇の居場所を都の中の別の場所に遷すこと)したり、何か不吉なことがあると引っ越ししたり、と言うことはしばしばあったので、平安京も最初はそんな都の一つだった。

桓武天皇の後を継いだ息子の平城天皇はたった3年で、弟の嵯峨天皇に皇位を譲って、奈良の平城京で隠居暮らしとシャレ込んだ。だが、そんな思いも束の間、退屈してきた。そこで、平城京に都を戻し、自分が天皇に帰り咲こうとした。そして起きた例の「薬子の乱」にビビッた嵯峨天皇は、元天皇の居場所として、現天皇が住む内裏の近くに後院と言う建物を造ることにした。

鴨長明の方丈記には「この京はじめ聞けることは、嵯峨天皇の御時に都と定まりける……」嵯峨天皇のなってやっと、平安京が落ち着いたことが書かれてある。

以降は、平清盛が政権立て直しを図って、福原に遷都したけど、失敗。わずか5ヶ月間で、京に舞い戻ってくる。これではプチ家出みたいなもの。

源頼朝は、都志向が強かったけど、千葉常胤の進言を受け入れ、都で幕府を開くのを諦め、鎌倉で幕府を開く。

足利の場合は、すでに経済の中心が京だったため、京以外で幕府を開けない状況だった。

清盛のプチ家出はあったものの、それからは明治に到るまでの長きに亘って、京は都であり続けた……。


6月30日(火)本当は、祇園祭って恐いんです……
9月10日(木)あの薬なら、たくさんあります!
10月21日(水)秋の怪談・華やかで恐い……

明日は何の日・11月8日
かわいいいい歯の日
かわいいいい歯並びの日
かわいいいいお肌の日
かわいいいいパックの日
かわいい世界都市計画の日
かわいい歯茎の日
かわいい刃物の日
かわいい八ヶ岳の日
かわいいたぬき休むでぇ〜(DIY)
かわいいボイラーデー
かわいい屋根の日
かわいい果物の日
かわいい歯の日
かわいい歯ブラシ交換デー
かわいいおみやげ感謝デー
かわいい米の日

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2009年11月06日

(金)本当は36人のボーイズラブ?

これはタブーなんだけど……。

明日、11月7日は、日本三大仇討ちの一つ、鍵屋の辻の決闘があった日。1630年寛永7年のこと。

日本人なら、剣豪「荒木又右衛門の36人斬り」を知らない人はいないくらいに有名!でも、ほとんどの人が36人もの人間を斬れるはずがない。36人とは誇張された数字であることも知っている。その36人はちょっと置いとくにしても、本当の仇討ちの理由を知らない人も多いのではと思う。そこには映画やドラマでは決して取り上げない、取り上げられない理由があった。

岡山藩主、池田忠雄(ただかつ)の小姓、渡辺源太夫は超イケメンで、忠雄の寵童。つまり、ボーイズラブの相手。その源太夫に横恋慕して関係を迫ったのが、藩士、河合又五郎。それを源太夫に拒絶されると、逆上した又五郎は源太夫を殺害。又五郎は脱藩して、江戸へ逐電。旗本、安藤次右衛門正珍に匿われる。

激怒した忠雄は、幕府に又五郎の引き渡しを要求する。そりゃ、怒るわ。かわいい寵童を殺された上に、いつも威張り返っている旗本がその憎っくき犯人を匿うのだから。その安藤は、旗本仲間と結集して、これを拒否。かくして、外様大名と直参旗本のメンツをかけた争いとなる。

それなのに1632年寛永9年、忠雄は死去する。余程悔しかったのだろう、死に際して又五郎を討つように遺言して亡くなる。息子の光仲が家督を継いだとき、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなり、又五郎は江戸所払いとなった。幕府はケンカ両成敗として、事件の幕引きを決定するつもりでいた。

しかし、源太夫の兄、数馬は仇討ちをせざるを得ない状況に追い込まれていた。戦国時代より、仇討ちの習いとして、兄が弟、父祖が子孫、主君が配下の仇を討つことは異例中の異例のことだけど、主君の遺言とあれば、数馬は弟の仇討ちをしなければならなかった。数馬は国替えに従わず、仇討ちのため脱藩する。

しかし、天下太平の世、剣に頼らずとも生きていけた。数馬は剣の道はさっぱりだった。だが、数馬には強い味方がいた。姉婿の荒木又右衛門は郡山藩の剣術指南役。その又右衛門に助太刀を依頼。又右衛門は快諾。又右衛門と数馬は又五郎の行方探しに奔走する。1634年寛永11年11月、又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。

一方の又五郎は危険を察知し、江戸へ逃れようとする。又右衛門と数馬は、又五郎が伊賀路通りから江戸に向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せることにした。

又五郎は叔父の元郡山藩剣術指南役、河合甚左衛門と、妹婿の槍名人、桜井半兵衛等、総勢11人に護衛されていた。一方の数馬には又右衛門とその門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人。

11月7日の早朝、鍵屋の辻に差し掛かった又五郎一行に斬りこみ、決闘開始!孫右衛門と武右衛門が馬上の半兵衛と槍持ちに斬り付け、半兵衛に槍が渡らないようにする。又右衛門は馬上の甚左衛門の足を切り、落馬したところを斬り伏せる。ついで、又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしている半兵衛を打ち倒す。このとき、武右衛門は命を落としている。又五郎側は頼みの二人が殺られて、戦意喪失して逃げだす。

又五郎も逃げようとするが、又右衛門たちに取り囲まれる。ついに殺られてしまう、ではなく、又五郎を倒すのは数馬の役目。この二人、本当は主役なのに、剣術はからっきしダメ。延々と5時間も斬り合うことに……。やっと数馬が又五郎に傷を負わせたので、又右衛門が止めを差す。なので、又右衛門が斬ったのは二人……。

決闘地の領主、津藩藤堂家は又五郎一行の情報を提供し、決闘が始まると周囲を封鎖。又五郎の逃走を阻止し、数馬らを支援していた。支援の理由は、この事件を外様大名と直参旗本の争いとみなしていたから。

見事、本懐を遂げた数馬たちは世間の耳目を集め、特に又右衛門には賞賛の嵐が吹き荒れ、いつしか2人が36人斬りになってしまった。3人は伊賀上野の藤堂家に4年間預けられ、又右衛門を鳥取藩、郡山藩、いずれの藩が引き取るかで紛糾する。やがて3人は鳥取藩に引き取られることになった。

1638年寛永15年8月13日、3人は鳥取に到着。だが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。突然のことに、毒殺説もささやかれたけど、生存隠匿説が有力。鳥取藩に着いた又右衛門たちは妻子を呼び寄せるが、妻子が到着した時には死亡したことになっていた。実際に、又右衛門が亡くなったのは、1643年寛永20年9月24日。生存を隠匿したのには、河合党の暗殺を恐れたためとされている。

日本刀は、斬るより突く方が優れている武器。大昔の東映映画や、ふと立ち止まっては高笑いするテレビドラマのように、バッタバッタと斬り殺せるものではない。では、突けば何人でも殺れるかと言えば、これがそうでもない。突いたはいいけど、今度は刀を抜くのが、さあ、大変。これが中々抜けるものではない。人の体は刀の都合のいいようには出来てない。これでは相当の怪力の持ち主でなければ、日本刀で相手を何人も倒すことは出来ない。また、以下に剣の達人とは言え、2対1となれば相当分が悪い。さらに大勢に取り囲まれればまず命はない。

ちなみに斬られたことにより死ぬのではなく、斬られれば出血する。その多量出血により、絶命する。つまり、失血死。

現代は刀など持ち歩かないけど、小さくても殺傷能力の高い刃物はたくさん売られている……。


明日は何の日・11月7日
かわいい知恵の日
かわいい鍋の日
かわいい釧路ししゃもの日
かわいいウェルカムウインターデー(あられ・おせんべいの日)

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2009年11月05日

(木)男と男の、運命の糸が絡み合う時……

雪斎、恐るべし!

明日、11月6日は、安祥城(あんしょうじょう)の戦いがあった日。1549年天文18年のこと。

1540年天文9年、尾張(愛知西部)の織田信秀が、駿河(静岡東部)の今川氏に属していた三河(愛知東部)岡崎城主・松平広忠の三河安祥城(愛知県安城市)を奪ってから、尾張と三河の隣国同士の争いは絶え間なく繰り広げられていた。また、信秀は、もう一つの隣国美濃の斉藤道三とも、ガタガタやっていた。お互いに自分の領地を少しでも広げようと画策する、群雄割拠の時代だった。

そんな時代の1549年天文18年、弘忠が家臣に斬殺されると言う事件が起きた。これには三河の松平氏を配下に持つ、今川義元は大いに驚きあわてた。

それと言うのも、以前から織田家からたびたび国境線を侵されていた広忠は、名門今川氏に支援してもらおうと、その配下になることを約束し、2年前、嫡男竹千代を人質として今川氏に差し出すも、途中で織田方に奪われてしまい、竹千代は織田の人質となっていた。

当主のいなくなった松平家から、跡継ぎにと竹千代が求められた場合、竹千代は織田の傘下になってしまう可能性が大きい。そうなれば、三河一国がそっくりそのまま織田の領地になってしまう。松平を今川の傘下につなぎ止めておくためには、なんとかして、織田家に揺さぶりをかけなくてはいけない。

義元は家臣の朝比奈泰能(あさひなやすよし)らを岡崎城へ送り込んで、守りを固める一方、軍師の太原雪斎(たいげんせっさい)を総大将に、信秀の息子、信広が城主の安祥城攻めを命じる。

3月19日、僧侶である雪斎は、墨染めの法衣の上にヨロイを付け、最前線に立って指揮を取った。だが、この日は織田方の激しい抵抗に合い、本多忠高(本多忠時の父)を失い、一旦兵を引いた。その後、9月18日にも双方激突するも、安祥城は落ちなかった。

明けて、1549年天文18年11月6日、軍の体勢を立て直した雪斎は、大軍を率いて安祥城を包囲、総攻撃をかける。この日はまたたく間に三の丸が落ち、本丸の孤立に成功。

雪斎の狙いは、信広を生け捕りにすること。織田の人質となっている竹千代をこちら側へ。信広は織田家当主、信秀の息子。1対1の人質交換を成功させるため!

信広は降伏し、今川の人質となった。4日後の11月10日、尾張笠寺(名古屋市)において、両者の人質交換は行われた。このとき8歳の竹千代は、亡き父の後をついで、岡崎城主の身分となるも、実際の岡崎城には今川の家臣が城代として入り、竹千代はそのまま駿府に送られることとなった。

織田の人質から今川の人質へ変わっただけ……。しかもこれで完全に三河は今川の支配下になってしまった。松平の家臣は今川に従うしかない。

わずか8歳で、あっちからこっちへの人質移動、父の死に目にも会えなかった少年は、このときから19歳の運命の日まで人質生活を続けることになる。

その運命の日、1560年永禄3年5月19日、桶狭間の戦い。この戦いで当主、義元を失った今川家のドサクサで、長年の人質生活から解放された少年。彼こそが、ご存知、後の徳川家康。

奇しくも、この家康の長年の人質暮らしの呪縛から救った、その人こそ、あの日、人質交換された相手、信広の弟、信長!

こうして、信長と家康の今川を挟んだ運命の糸が、初めて絡み合うことに……。

だけど、忘れてはいけない。この桶狭間の合戦のとき、雪斎が生きていたなら、義元が信長に討たれるようなことはなかったと言われている。雪斎は、1555年弘治元年、60歳でこの世を去っている。今川氏の衰退は、雪斎の死によるところが大きい……。


明日は何の日・11月6日
かわいいお見合い記念日
かわいいアパートの日
かわいい電話放送の日

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2009年11月04日

(水)田村麻呂とアテルイとイワグノキミモレ……

明日、11月5日は、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命された日。797年延暦16年のこと。

平安時代の日本はまだ一つの国とは言えなかった。東北には蝦夷(えぞ、えびす)と言う呼ばれる別の国があった。畿内に誕生した大和政権は、抵抗勢力を抑え中央集権を目指し、蝦夷に軍を差し向けていた。平安京に遷都して、第50代桓武天皇の時代になっても、まだ配下に組み入れることは出来なかった。

坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ、758年天平宝字2年〜811年弘仁2年5月23日)
田村麻呂が若年の頃、陸奥では蝦夷との争いが激化していた。789年延暦8年、紀古佐美(きのこさみ)率いる官軍が、蝦夷軍に大敗。田村麻呂は次の征討軍に加わり、大保弟麻呂(おおとものおとまろ)を補佐して、793年延暦12年軍を進発。このときは4人の副使(副将軍)の1人だったけど、中心的な役割をしていた。

征夷とは、蝦夷を征伐すると言う意味。そのための将軍。それも大将軍と名づけられている。なので、征夷大将軍と言う役職は武勇に優れた武将が任命される。だが、その武勇を持ってしても、何度軍隊を派遣しても、蝦夷の族長、阿弖流為(あてるい)の抵抗で、ことごとく失敗していた。

801年延暦20年、田村麻呂は3度目の蝦夷征伐の征夷大将軍となり、蝦夷の平定に成功。田村麻呂の各族長に対する「懐柔策」によって、ほとんど戦わずして蝦夷は降伏した。802年延暦21年4月15日、阿弖流為と盟友、磐具公母礼(いわぐのきみもれ)以下500人余も降伏。田村麻呂は命の保障をして、桓武天皇に拝謁すべく平安京への上洛を促す。

だが、都の公家たちは「蝦夷は獣の心を持っている」として、
803年延暦22年8月13日、阿弖流為と磐具公母礼は処刑されてしまう。

戦わずして、平和裏に蝦夷を平定した田村麻呂は大将軍と呼ぶにふさわしいけど、都でのんびりしていた公家たちのなんと、非情なこと……。


明日は何の日・11月5日
かわいい電報の日
かわいい雑誌広告の日
かわいいいいリンゴの日
かわいいいい五世代家族の日
かわいい縁結びの日
かわいいノー・レジ袋デー
かわいい長城清心丸の日

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2009年11月03日

(火)さあ、どうする?そこのイケメン!

明日、11月4日は、石川昭光が、伊達政宗の傘下入りした日。1589年天正17年のこと。

同じ年の6月5日、摺上原(すりあげはら)の合戦で勝利を治めた、伊達政宗。一方の芦名氏は多くの犠牲者を出していた。芦名氏の総大将の芦名盛重(義弘)は佐竹義重の息子。芦名氏に養子としてやってきたわけだけど、敗戦の責めを負わされ、5日後、盛重はわずかの手勢を連れ、実家の佐竹氏を頼ることとなる。

芦名氏に勝ったとは言え、名門の芦名氏を滅ぼしたわけではない政宗は、一旦は猪苗代城(福島県猪苗代)に戻り、自軍を休ませるとともに、敵の情勢を探っていた。そこに、振って沸いたように飛び込んできたのが、芦名氏の自滅のニュース

合戦の勝利から、労せずして名門芦名氏を滅亡させた……。

政宗は翌日、芦名氏の居城、黒川城に威風堂々の入城をする。思えば、18歳で家督を継ぎ、その翌年の父の死をのり越えてから、わずか4年後のことだった。

居城を米沢城から黒川城へ移した政宗の元には、鎌倉時代からの名門芦名氏の滅亡を目の当たりにした、周辺の小勢力の武将たちが次々と伊達の傘下に入ってきた。石川昭光もその一人だった。

石川昭光(1550年天文19年〜1622年永禄8年7月10日)
伊達春宗の息子。政宗の叔父に当る。1568年永禄11年、石川春光の養子となる。1589年天正17年、伊達傘下に服属を表明する。

これによって政宗は、仙道七郡(白河、石川、岩瀬、田村、安積、信夫(しのぶ))と、陸奥、出羽合わせて66郡のうち、約半分を手中にしたことになる。まさに奥州の覇王と呼ばれる大大名にのし上がった。このとき、政宗23歳。父の死からたったの5年で、奥州の半分を掌握した若者が、後何十年もの人生のうちで天下を取るのも夢ではないと思ってしまうのも無理はない。

その若さは豊臣秀吉の本当の力を知らなかった。さらに、関東の北条氏が健在の間は、秀吉も奥州まで手を出さないと言う見方をしていた。芦名氏とよしみを通じていた秀吉は、政宗が芦名氏を潰した理由が知りたくて、再三再四の上洛要請をかけた。だが、政宗はなんだかんだと理由をつけては断り続けていた。ところがここに来て、その北条氏が危うくなってきた。

四国・九州を平定し、越後の上杉景勝と主従関係を結んだ秀吉は、1587年天正15年12月「関東・奥州惣無事令」を発布している。惣無事令とは、大名同士の私的な争いをしてはいけないと言う命令で、自らが天下を掌握せんがため、勝手に合戦をしてはいけないと言う、天下目前の秀吉が、刀狩り、検地に続いて発令したものだった。

なのに、政宗が仙道七郡を掌握した1589年天正17年と同年の10月23日、北条氏は惣無事令を破って、真田氏の名胡桃(なぐるみ)城を奪取すると言う事件を起す。このことは結果的に秀吉に、北条氏を潰す口実を与えてしまうこととなる。

始まった小田原城総攻撃。政宗は秀吉の再三の上洛要請を断り続けている。秀吉の傘下になるのかならないのか、決断を迫られることに……。

さあ、どうする?若い、政宗クン!


10月7日(水)オー・マイ・戦国!
7月4日(土)インドア派・あのスター一族の落日……

明日は何の日・11月4日
かわいいユネスコ憲章の日
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2009年11月02日

(月)敵からも愛された、猛将!

明日、11月3日は、筑後・柳川城主、立花宗茂が加藤清正の説得に応じ、開城した日。

立花宗茂(1567年永禄10年11月18日〜1642年寛永19年11月25日)
豊後(大分)の戦国大名、大友宗麟の家臣で島津氏に攻められ、岩屋城で全員打ち死にと言う壮絶な激戦を繰り広げた、高橋紹運の息子。同じく宗麟の重臣だった、立花道雪の娘婿となり、立花姓を名のる。

島津に攻められたこの合戦のとき、父を失いながらも自らの立花城を死守し、その後、大友氏の支援にのり出した豊臣秀吉の力を借りて、見事、島津から豊後一国を守りぬいた。

そんな宗茂の力量を見抜いた秀吉は、戦後、主君である大友氏を改易して、逆に宗茂を独立した大名に取り立て、筑後(福岡)柳川13万石を与えたと言うから、その猛将ぶりはハンパじゃない。

秀吉の傘下になってからの宗茂は、朝鮮出兵でも活躍。1593年文禄2年の、碧蹄館(ビョクジェグァン)の戦いではわずか3千の兵で、30万の明軍をキリキリ舞いさせた。

秀吉の死後、関が原の合戦では、秀吉への恩から西軍につき、近江(滋賀)の大津城を攻めて開城へ追い込ものの、本家の関が原の合戦が予想以上に早く決着が付いてしまい、宗茂は関が原に参戦することができず、そのまま、柳川城へ戻ることになった。

その柳川城に攻めてきたのが、関が原の2日前に勃発した、石垣原の合戦で勝利し、豊後・豊前を制圧した、黒田如水(孝高)如水は佐賀城主、鍋島直茂に柳川攻めの先陣を言い渡していた。このとき、直茂は、自身は徳川の東軍支持を表明していたけど、息子勝茂は西軍となり、伏見城攻めに加担していた。その疑念を晴らすためにも先陣として、柳川城を攻めに加わっていた。さらに、西軍として関が原に参戦し、10月1日に、処刑された小西行長の主亡き諸城を次々と攻略した加藤清正が加わる。

如水、直茂、清正のいずれも智将の誉れ高い彼らに囲まれてしまった宗茂。さすがの宗茂も窮地に追い込まれてしまう。

その時、助け船を出したのが、加藤清正。宗茂と清正は朝鮮出兵で共に戦った戦友。宗茂の力量は十分に知っている。父のように全員打ち死にの悲劇となり、ここで命を捨てるには惜しい武将……。清正は宗茂を説得した。

1600年慶長5年11月3日、宗茂は清正の説得に応じて、柳川城を開城した。如水の交渉条件は、この先、九州での合戦で先陣を務めると言うものだった。このまま、九州平定を続けなければ、関が原の合戦で敵中突破で戦場を去った島津義弘の兄、義久が薩摩(鹿児島)を牛耳っている。

ところがその後、宗茂、直茂を先陣として、肥後(熊本)から薩摩の国境まで陣を進めた11月12日、家康が薩摩への進軍を中止する決定を下した。

義久のさまざまな外交交渉が功を奏したことと、これ以上合戦が長引くことを良しとしなかった家康の思惑もあり、この先、島津を攻めることは無かった。

柳川城の攻防戦が最後となった、関が原の合戦の幕はすべて下ろされ、降伏となった宗茂への処分が下された。清正をはじめ、宗茂の武勇を知る者たちは、なるべく軽い処分にと尽力するものの、西軍に加担した罪は大きく、翌年1601年慶長6年、改易処分となった。

諸将に惜しまれつつ、京都で数人の家臣と浪人暮らし、生活は当然苦しく、ある時、米が残り少ないので、ついに大根粥となった。大根粥を目にした宗茂は「粥が食べたいなら、自分で水を入れる」と言った。宗茂は、粥が米の少なさを補うための策だとは知らなかった。また、家臣たちは食べ物調達に町に出かける前に、糒(ほしいい)のためにご飯を干していた。ところが途中で雨が降ってきた。きっと、殿は糒を取り込んではくれないだろうと話しながら帰宅すると、やはり糒はそのままだった。そのことが殿らしく、家臣たちは思わず万歳をした。その頃には雨は止んでいた。すると宗茂は「お前たちは雨が止んだのがそんなにうれしいのか」と言った。

そんな殿様気分の抜けない宗茂は、この頃はせっせと元家臣のために、感状書きをしていた。感状とは、再就職のための勤務評定のようなものだけど、宗茂の感状は推薦状のようなものだった。何しろ、名将の誉れ高い宗茂がほめちぎっているのだから、仕官先も引く手数多だったとか。ともあれ、宗茂が感状書きに精を出すことができたのも、清正達の援助があったから。

1603年慶長8年、2代将軍、秀忠から西国事情、内政相談などで声がかかり、最初、陸奥(むつ、青森)棚倉1万石が与えられ、4年後3万石に加増された。さらに、1620年元和6年、宗茂が改易された後、柳川城主となっていた、田中氏が跡継ぎの無いのないまま断絶。すると以前の領地をそのまま与えられ、城主として復活することとなったと言うから、相当、頼りにされていた人物なのだ。その時には再就職を斡旋し、あちこちに散らばっていた家臣たちが、再び集まってきた。

宗茂の重用は、3代将軍家光の世になっても続き、関が原の合戦によって、徳川に付いたいわゆる外様大名達が、何かと不可思議な死を遂げる中、宗茂だけは76歳の天寿を全うする。亡くなる5年前には、島原の乱で戦場の指揮を取り、若き日の雄姿をほうふつさせていた宗茂は、戦国屈指の名将と言える。


7月26日(日)あなたの名は、平成の空に輝いてます!
9月15日(火)敵中突破!「島津の背進」
10月24日(土)美少年だ!行かなくっちゃ!

明日は何の日・11月3日
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2009年11月01日

(日)敵は、目の下にあり!

邪魔者は、消す……。

明日、11月2日は、織田信長が、弟、信行を殺害した日。1557年弘治3年のこと。

信長が若い頃「天下一のうつけ」と呼ばれていたことは有名なことで、着物の片袖を脱ぎ、帯の代わりに縄を締め、髪は茶せんのような形で、女物の着物を羽織って、遊び歩いていた。父、信秀の葬儀にもその格好で表れ、仏前の線香の灰を投げつけると言うシーンは、若き日の信長を語る上ではずせない定番となっている。その時の信行は姿勢も良く、凛とした佇まい(これが普通なんだけど)

これでは周囲から「うつけの兄より、弟の方が織田家を継ぐのにふさわしい」と言う、声が出るのも当然。

さすがに父亡き後は、一応うつけを卒業し、尾張統一に向かって進む信長。そうなっても、信行を推す声は多く、信長にとって、信行は目下であっても、目の上のタンコブ。

1556年弘治2年、信長の才気を高く評価してくれていた、隣国の美濃の斉藤道三が、息子、義龍との戦いに敗れ亡くなってしまった。

これを機と思ったかどうかはわからないけど、信行は柴田勝家、林通勝らの重臣を味方に付け、信長に反旗をひるがえした。信行にも「織田家を継ぐのは自分の方がふさわしい」と言う自負があっただろう。だが、信長は勝家、通勝らを次々と打ち破り、追い詰められた信行は、自分の城で籠城する。だけど、このときは、信長、信行の生母の実家の土田氏が間に入り、一応和睦と言うことで、終結。

しかし翌年、信行は再び謀反を企てる。このときはナント、勝家が密告。

そこで11月2日、信長は「重い病気にかかっている」とウソをつき、信行を清州城に呼び寄せた。そうとは知らずにやってきた信行を有無を言わさず、自らの手で惨殺した、信長……。

同族同士で争ってきた尾張の国を、最大のライバルを消し去って手に入れた信長は、いよいよ天下取りへの道を進み始める。

あの桶狭間の合戦の3年前の出来事。


明日は何の日・11月2日
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