明日、11月11日は、耳川の合戦があった日。1578年天正6年のこと。
前年の5月、木崎原の合戦での奇襲で、薩摩(鹿児島)の島津義弘に大敗をきし、日向(宮崎)の南半分を奪われた伊東義祐(よしすけ)は豊後(大分)の大友宗麟の元に逃げ込み、支援を求める。「島津を追っ払ってくれたら、日向を半分あげる」と言う義祐の誘いに、そこにキリスト王国を造ろうとした宗麟は、息子に家督を譲った後、3万5千の大軍を率いて海路、日向無鹿(むしか、宮崎・延岡)に着陣したのが、1578年天正6年8月12日。キリシタン王国のユートピア建設を進める宗麟。
そんな宗麟の別同部隊は陸路を南下していた。重臣の田原紹忍(しょうにん)の率いる2万の軍勢は境界線の耳川を渡り、島津配下の高城(宮崎・木城町)に迫っていた。
城の北には田北鎮周(しげかね)東方には星野鎮種(しげたね)白のすぐ東には佐伯宗天(そうてん)を配置。総大将の紹忍は宗点の後方に陣取り、10月20日城の包囲は完了。
一方の城を守る山田有信は、大友軍の動きを薩摩に知らせようとして、2キロ南の佐土原城(さどわらじょう、宮崎)の島津家久(義久の末弟)に知らせる。家久は即座に大友軍の包囲をくぐって、高城城内に入城。この援軍に城内の兵を合わせると何とか3千になった。小競り合いで時間を稼ぎつつ、籠城を続ける高城。
有信から知らせを受け取った当主、島津義久は3万の大軍を率いて、薩摩を出陣。11月1日に佐土原城に到着。さらにあちこちから駆けつけた島津軍で5万にふくれ上がり、対する大友軍も援軍が到着して、総勢6万となった。
いよいよ決戦の日が近づいてきた。島津義弘(義久の次弟)は大友への伏兵を仕掛けるべく、より高城に近い財部城(たからべじょう、宮崎)に入る。
しばらくの間降り続いた雨も止み、11月11日白昼。決戦の火蓋は切って落とされた。先日の夜、闇に紛れて4千余の義弘軍の伏兵は川を渡り、宗天の陣とその後の総大将紹忍の本陣との間にひそかに入り込み、このときを待っていた。
伏兵がいるとは知らず、宗天の陣と紹忍の本陣の間を行き来する大友の兵士達。そこをいきなり奇襲。まったく無防備なところを奇襲された大友軍は乱れ、宗天の陣は焼き払われ、陣を逃げ出したところに朝早く財部城を出た残りの義弘軍が加わって交戦。
本陣や他の大軍が反撃を試みるも、これに高城に籠城する城兵が牽制。大友軍は完全に分裂。何の反撃も出来ないままに、この日は500余命の死者を出す大敗。5万の島津と6万の大友。互角の戦いと思われたこの戦はふたを開けてみれば島津の大勝。
この日の夜、義久の本隊は根白坂(ねじろさか)に到着。いよいよ明日こそ決戦。だが、秘策はある。
一方の大友軍の夜の軍議は喧々囂々(けんけんごうごう)意見は出るものの、一向にまとまらなかった。一応は敵の様子見をしてから、と言う雰囲気でその夜の軍議は終わったものの、初日の連携乱れは翌日も続くこととなる……。
その話は、また、明日。
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